▼▽――△▲
老人の思い出話に耳を傾けること小一時間、真琴は起き上がり溢しのように頭を前後に揺らしていた。
「絵はどうして戻って来たんです?」
「ん? 絵は……夏休みの宿題に提出した」
「もう、おじい様ったら……。普通プレゼントに使ったようなものを宿題に出すかしら?」
「ふふ、まあなんでじゃろうな?」
気さくそうに笑う老人とそれを嗜める孫。真琴も不可思議といった様子でそれを見ているが、澪にはなんとなく老人の嘘が分かっていた。
――身を引いたのよね。多分……。
青春時代の久弥がどのような人なのかは分からない。けれど身の丈も力も無く、一目惚れと言うべきか憧れ程度の好意では、相手に対して荷物になる。なけなしのプライドというものがそれをさせたのかもしれない。
「あの絵って病院から描いたんですよね」
「ああ、そうじゃよ」
「灯台が二つ並んでいたわけでもないのに?」
「う? うむ、まあ、そうじゃな……ふふ。まあ、ワシもあほうじゃったからのう」
「ふうん。それなら多分……」
何かに気付いたらしく真琴は誇らしげに口元を緩める。
澪としては幼馴染のその自信に満ち溢れた態度があまり好きではなかった。なんとなく自分が遠くなるようで、少し寂しさもある。けれど、彼は自分をきっと引っ張ってくれる。ただ、それが……。
「澪ちゃん、胡桃のほうはどうかしら?」
台所のほうから公子がすりこぎと鉢を持ってやってくる。彼女は集められていた胡桃の実を拾うとそれらを放り始める。
「へえ、なんか和風って感じですね。コレで豆腐が作れるんですか?」
「んー、ちょっと量が足りないけどこの人数なら平気かしらね」
「他にも何かお手伝いできることありませんか?」
「あら嬉しい。それじゃあね、香味野菜を刻むのとすりおろすの手伝ってくれる? 夕飯に使うから」
夕食も出世魚だろうけれど、公子が手を加えればそれはキャリア魚とでもいうほど素敵な料理になる。きっと香味野菜をふんだんに使った餡かけか、それとも蒸し焼き、マリネなどかもしれない。
「はーい」
澪はカナヅチを片付けると、そのまま公子の後に続いた。
◆◇――◇◆
ぽつぽつと降る雨。携帯ゲーム機のような気の利いたものもなく、ただ暇を持て余すばかり。
理恵はと言うとコーヒーを片手にレポート用紙と格闘し、真琴はというと老人の昔話に耳を立てるくらいしかやる事が無かった。
「それでな、ワシは和弥に言ってやったのだ。人間いたるところに青山ありと……、しかし何を勘違いしたのか、登山が趣味になってしまって……」
隅に寄せられていたカナヅチを取り、残っていた胡桃を縦に殴る。
パカリと綺麗に割れたところでどうとなることもなく、渋皮つきの実を興味本位に口に入れる。
水分を吸われるような渋みと苦味の中にほのかに感じる甘み。少し油のような感覚のある胡桃は意外と美味しいと思えた。
「公子は……。そうじゃな、女の子ということで少し甘やかしすぎたかの。昔はそりゃ可愛くて……」
まだいくつか残っていたのでそれらを砕いて皿に乗せ、久弥にも勧める。
「おお、これは失礼。うむ、胡桃というのは香ばしくて若干渋みがあって……ふふ、まるでワシの人生みたいじゃな。そういえばこんなことも……」
久弥の話は留まることがないらしく、真琴はただ「はあ、ふうん、へえ」と三種類の相槌を返す程度。それでも老人は喋りたがりなだけらしく、一向に気に留めなかった。
先ほど朝食を食べたのもあり、胡桃に飽きた真琴は他にないかとあたりを見る。
テーブルの上には爪楊枝と紙ナプキンがある程度。ポケットにはというと、リップクリームがあり……、
「それでな、弥彦はなんというか誰に似たのかどうにも気が早くていかん。ときには耐え忍ぶことも必要なのじゃよ……」
爪楊枝を支柱にしてナプキンの帆をつくる。半分に砕いた胡桃の殻を船に見立てて出来上がり。
「たまには帰ってくればよいのにのう。公務員なんていつも遊んでいるようなもんなのに……」
話がここに居ない理恵の父親にいたるところで船団の完成。
「あら真琴君、可愛らしいもの作ってるのね……」
気分転換なのか、理恵が胡桃の船団に興味を示す。
「ほほう、なかなか器用じゃの。コレは浮くのかのう?」
「大丈夫だと思いますよ。木とそんなに変わらないし」
「へえ、本当に浮くのかしら?」
荒っぽい理恵は帆をぽきりと折ってしまい、つまらなそうに捨ててしまう。
「ああ、酷い……」
「ふむ、それでは処女航海にでも……」
年甲斐もなく目をきらきらさせる久弥は、小さな一つを取りしげしげと見つめている。
不意にカップを持ち出すと、そこに冷めたコーヒーを注ぐ。それがある程度になったところで一隻が船出のときを迎える。
波立つコーヒーの上を右へと左へと揺れる船だったが、やがてやや右に傾きながらも姿勢を保ちはじめる。
「へえ、本当に浮いてるわ……」
「まあ簡単に言えばただの胡桃の欠片ですからね。浮いて当然です」
「ふむ、それでは積荷でも載せてみるか」
イタズラ心を失っていない老人はテーブルシュガーを片手に胡桃の船にパラパラとまく。
粉雪のような砂糖は見る見るうちに胡桃の船に山を成すが、それでも何とかバランスを保っていた。
「へえ、意外としぶといわね。それじゃあもういっちょ!」
今度は理恵が塩をまき始める。すると右へ左へとふらついていた船はやがてバランスを大きく崩し……、
「あーあ、沈んじゃった……」
「そりゃそうですよ……」
「ふむ、理恵よ。ちゃんとそのコーヒー飲むのだぞ? ワシは食べ物を粗末にするのはよくないと思うのでな」
「それならおじい様だって砂糖をたくさん……」
「いや、最近糖尿で引っかかってな、それで砂糖は控えておるのじゃ。それともなにか? 理恵は老い先短いワシに糖尿になれとでも?」
ニヤリと笑う久弥と唇を噛む理恵。真琴にしてみれば理恵がやり込められるという新鮮な状況に驚きを隠せない。
「あ……」
真琴のため息にも似た一言で一瞬の間が空く。
「すみません、ちょっと僕行ってきます!」
突然席を立ったせいで椅子が後に転んでしまう。真琴はそれを急いで立たせると、テラスから外へと走り出していた……。
▼▽――△▲
「理恵さん、出来たよ~」
頬にゴマの粒を付けながら食堂へやってきたのは澪。テーブルには黒ずんだティッシュと濡れた胡桃、そして「あまじょっぱい」と言いながらコーヒーを飲む理恵がいた。
「こんどはなにかしら?」
「もうお昼だからってゴマダレの冷やし中華。これもあたし手伝ったの」
続いてやってくる美羽が運んできたのは涼しげな透明な器に載せられた冷やし中華。きざみキュウリと錦糸卵、剥き身のエビとほかに香ばしい香りのするゴマダレが食欲を誘う。
「へえ、おいしそうね」
「あれ? 真琴は?」
「ん? ああ、真琴君なら外に行ったよ。なんだか急いでたみたいだけど」
「ええ、こんな雨の中? もう、真琴ってば何考えてるのかしら。……いいわ、もう食べちゃいましょう」
澪が手を合わせようとすると、既にお箸片手にずるずると麺をすする久弥の姿があった。
老人曰く、「たいむいずまねー」らしい。
続き
「もう、おじい様ったら……。普通プレゼントに使ったようなものを宿題に出すかしら?」
「ふふ、まあなんでじゃろうな?」
気さくそうに笑う老人とそれを嗜める孫。真琴も不可思議といった様子でそれを見ているが、澪にはなんとなく老人の嘘が分かっていた。
――身を引いたのよね。多分……。
青春時代の久弥がどのような人なのかは分からない。けれど身の丈も力も無く、一目惚れと言うべきか憧れ程度の好意では、相手に対して荷物になる。なけなしのプライドというものがそれをさせたのかもしれない。
「あの絵って病院から描いたんですよね」
「ああ、そうじゃよ」
「灯台が二つ並んでいたわけでもないのに?」
「う? うむ、まあ、そうじゃな……ふふ。まあ、ワシもあほうじゃったからのう」
「ふうん。それなら多分……」
何かに気付いたらしく真琴は誇らしげに口元を緩める。
澪としては幼馴染のその自信に満ち溢れた態度があまり好きではなかった。なんとなく自分が遠くなるようで、少し寂しさもある。けれど、彼は自分をきっと引っ張ってくれる。ただ、それが……。
「澪ちゃん、胡桃のほうはどうかしら?」
台所のほうから公子がすりこぎと鉢を持ってやってくる。彼女は集められていた胡桃の実を拾うとそれらを放り始める。
「へえ、なんか和風って感じですね。コレで豆腐が作れるんですか?」
「んー、ちょっと量が足りないけどこの人数なら平気かしらね」
「他にも何かお手伝いできることありませんか?」
「あら嬉しい。それじゃあね、香味野菜を刻むのとすりおろすの手伝ってくれる? 夕飯に使うから」
夕食も出世魚だろうけれど、公子が手を加えればそれはキャリア魚とでもいうほど素敵な料理になる。きっと香味野菜をふんだんに使った餡かけか、それとも蒸し焼き、マリネなどかもしれない。
「はーい」
澪はカナヅチを片付けると、そのまま公子の後に続いた。
◆◇――◇◆
ぽつぽつと降る雨。携帯ゲーム機のような気の利いたものもなく、ただ暇を持て余すばかり。
理恵はと言うとコーヒーを片手にレポート用紙と格闘し、真琴はというと老人の昔話に耳を立てるくらいしかやる事が無かった。
「それでな、ワシは和弥に言ってやったのだ。人間いたるところに青山ありと……、しかし何を勘違いしたのか、登山が趣味になってしまって……」
隅に寄せられていたカナヅチを取り、残っていた胡桃を縦に殴る。
パカリと綺麗に割れたところでどうとなることもなく、渋皮つきの実を興味本位に口に入れる。
水分を吸われるような渋みと苦味の中にほのかに感じる甘み。少し油のような感覚のある胡桃は意外と美味しいと思えた。
「公子は……。そうじゃな、女の子ということで少し甘やかしすぎたかの。昔はそりゃ可愛くて……」
まだいくつか残っていたのでそれらを砕いて皿に乗せ、久弥にも勧める。
「おお、これは失礼。うむ、胡桃というのは香ばしくて若干渋みがあって……ふふ、まるでワシの人生みたいじゃな。そういえばこんなことも……」
久弥の話は留まることがないらしく、真琴はただ「はあ、ふうん、へえ」と三種類の相槌を返す程度。それでも老人は喋りたがりなだけらしく、一向に気に留めなかった。
先ほど朝食を食べたのもあり、胡桃に飽きた真琴は他にないかとあたりを見る。
テーブルの上には爪楊枝と紙ナプキンがある程度。ポケットにはというと、リップクリームがあり……、
「それでな、弥彦はなんというか誰に似たのかどうにも気が早くていかん。ときには耐え忍ぶことも必要なのじゃよ……」
爪楊枝を支柱にしてナプキンの帆をつくる。半分に砕いた胡桃の殻を船に見立てて出来上がり。
「たまには帰ってくればよいのにのう。公務員なんていつも遊んでいるようなもんなのに……」
話がここに居ない理恵の父親にいたるところで船団の完成。
「あら真琴君、可愛らしいもの作ってるのね……」
気分転換なのか、理恵が胡桃の船団に興味を示す。
「ほほう、なかなか器用じゃの。コレは浮くのかのう?」
「大丈夫だと思いますよ。木とそんなに変わらないし」
「へえ、本当に浮くのかしら?」
荒っぽい理恵は帆をぽきりと折ってしまい、つまらなそうに捨ててしまう。
「ああ、酷い……」
「ふむ、それでは処女航海にでも……」
年甲斐もなく目をきらきらさせる久弥は、小さな一つを取りしげしげと見つめている。
不意にカップを持ち出すと、そこに冷めたコーヒーを注ぐ。それがある程度になったところで一隻が船出のときを迎える。
波立つコーヒーの上を右へと左へと揺れる船だったが、やがてやや右に傾きながらも姿勢を保ちはじめる。
「へえ、本当に浮いてるわ……」
「まあ簡単に言えばただの胡桃の欠片ですからね。浮いて当然です」
「ふむ、それでは積荷でも載せてみるか」
イタズラ心を失っていない老人はテーブルシュガーを片手に胡桃の船にパラパラとまく。
粉雪のような砂糖は見る見るうちに胡桃の船に山を成すが、それでも何とかバランスを保っていた。
「へえ、意外としぶといわね。それじゃあもういっちょ!」
今度は理恵が塩をまき始める。すると右へ左へとふらついていた船はやがてバランスを大きく崩し……、
「あーあ、沈んじゃった……」
「そりゃそうですよ……」
「ふむ、理恵よ。ちゃんとそのコーヒー飲むのだぞ? ワシは食べ物を粗末にするのはよくないと思うのでな」
「それならおじい様だって砂糖をたくさん……」
「いや、最近糖尿で引っかかってな、それで砂糖は控えておるのじゃ。それともなにか? 理恵は老い先短いワシに糖尿になれとでも?」
ニヤリと笑う久弥と唇を噛む理恵。真琴にしてみれば理恵がやり込められるという新鮮な状況に驚きを隠せない。
「あ……」
真琴のため息にも似た一言で一瞬の間が空く。
「すみません、ちょっと僕行ってきます!」
突然席を立ったせいで椅子が後に転んでしまう。真琴はそれを急いで立たせると、テラスから外へと走り出していた……。
▼▽――△▲
「理恵さん、出来たよ~」
頬にゴマの粒を付けながら食堂へやってきたのは澪。テーブルには黒ずんだティッシュと濡れた胡桃、そして「あまじょっぱい」と言いながらコーヒーを飲む理恵がいた。
「こんどはなにかしら?」
「もうお昼だからってゴマダレの冷やし中華。これもあたし手伝ったの」
続いてやってくる美羽が運んできたのは涼しげな透明な器に載せられた冷やし中華。きざみキュウリと錦糸卵、剥き身のエビとほかに香ばしい香りのするゴマダレが食欲を誘う。
「へえ、おいしそうね」
「あれ? 真琴は?」
「ん? ああ、真琴君なら外に行ったよ。なんだか急いでたみたいだけど」
「ええ、こんな雨の中? もう、真琴ってば何考えてるのかしら。……いいわ、もう食べちゃいましょう」
澪が手を合わせようとすると、既にお箸片手にずるずると麺をすする久弥の姿があった。
老人曰く、「たいむいずまねー」らしい。
続き