「そのときの彼が見たものが後の作品に影響を与えたんだ。皆も何かこう、人生を変えるような本に出合えるといいな……」
まだ三十代に数歩余裕のある彼は授業中も度々脱線しては青臭いことを言う。
当然ながら皆右から左へ受け流すばかり。
そりゃそうでしょ。たかが紙切れに書かれた数万字。今更本を読んで人生が変わるかしら?
「そうだ、皆は何か思い出に残る本とかないか? なんでもいいぞ」
まるっきり分かってない。ここは高校。中学校じゃないの。
若手まっしぐらで大学のコネもないあんた相手じゃ張り合いないわよ。
ほら、皆あっち向いてるよ?
「例えば……そうだな、先生なら……」
前もって質問とそういうシミュレーションしてないから言葉に詰まる。
いつものお経みたいな授業はどこに行ったのよ。
「私なら……、ドウテイ……かな?」
私はゆっくり手を上げたあと、彼が指名する前に答えた。
周囲から笑いが零れ、井口は顔を真っ赤にさせている。
安心しなよ、センセ。貴方が童貞だってのは皆知ってるわ。それにそういうの可愛いって言ってる子もいるのよ? 私は気持ち悪いと思ってるけど。
「あ、ああ、高村光太郎のな……うん。あれは先生も大学の頃に読んで……」
「はーい! 先生はドーテーなんですか?」
媚びたような声は確か橘さんだっけ? あの人ってなんか苦手。
だってああいう下品なこと平気で言うんだもん。
あ、人のこと言えないか……。
「はは、僕はまだ始まったばかりかな。教師という道をね」
漏れる失笑の中、彼は頭を掻いて笑っていた。
何が始まったばかりよね。
初まってすらないのにさ……。
***
「どうぞ」
「うん、ありがと」
カモミールのお茶は好きじゃない。
どこか歯磨き粉みたいな匂いがして反射的にうがいをしたくなる。
今日は土曜。私の番だ。
だから彼の家に来た。
こざっぱりとしていて消臭剤が常に人口的な花の香りを立たせている部屋。
二人の女の匂いが混ざっても不快でしかないし、私が買ってきたんだ。
ベッドに座る彼とクッションをわたされた私。
いつもなら私から彼に近づいて、そしてチャックを下ろす手はず。
「ごめんね、幸太ちゃん。私今日……」
不安定だからってピンポイントで来ないでほしい。
っていうか、欲求とシフトを変えてよ。
「んーん、由香ちゃんと二人一緒にいられるだけでも楽しいよ」
昨日だったかおととい? もう一人の彼女にはなんて答えたの?
きっと彼女とのエッチが一番気持ちいいんでしょ?
「ねえ、隣に座っていい?」
「え? うん、いいけど……」
生理のときってなんか嫌。
近くにこられるだけで気持ちが不安定になるんだ。
彼はクッションを掴む私に気付かないのか無用心に近づくと、そのまま肩を抱いてきた。
小さな幼馴染。彼は私の大切な存在。
彼がいたから私でいられる。
私の居場所。私に守られる人。私の自画像を守る人。
もたれると彼の髪から少し汗の匂い。
臭い分類に入るのにさ、なんか変に息が乱れる。
彼の欲望の代わりをさがしているのかしら? とにかく彼から発せられるものがほしい。
なんでもいい。
彼の手が私の下腹部に触れる。
「くすぐったいよ」
「いいでしょ?」
「うん。温かい」
ほしい。
「こうしてあげると楽になるんだよね」
「うん」
鈍痛がむず痒さに紛れていく。
「由香ちゃん」
「ん?」
「大好き」
彼の真っ赤な唇。
苺みたいですももみたいな味。
でも、生理のとき、お腹をさすられて楽になるなんて……、
「由香ちゃん」
「幸太ちゃん」
なんで知ってるの?
***
「なにか用ですか? 先生……」
放課後、教材室の掃除をしていた私を難しい視線で見つめる彼がいたので仕方なく声をかけた。
「いや、その……」
慌てるなら準備なさいよ。なに? この前の続きをしてもらいたいの?
もう彼に抱きしめてもらった。
だから男は必要ない。あと一日ぐらいは……。
「この前の続きなんだが……」
「先生、またですか?」
白い目を素でしてしまったのはこれが初めて。
まさかこんな短絡的な思考の持ち主だったとは思わなかった。
ジョシコウセイにトキメキタイのはわかるけど、仮にも教師でしょ? 我慢なさいよ。なんのためにオナニーしてるの? あの臭くて、まあそれなりに大きいものが変な気を起こさないためでしょ?
「いや、そうじゃなくて、君は平気なのかい?」
「なにがです?」
「歪っていうか、おかしな……そうだ、三角関係っていうのかな? そういうの」
マジでウザイかも。
なに? 私達の関係に口出ししたいの? そりゃ確かに変よ? でも、今は、まだ、上手く……回ってる……わ。
「相沢は来年受験だし、もうそろそろ本腰を入れて……」
「私がそれぐらいで勉強に身が入らなくなるとでもいうんですか?」
「いや、今も相沢は成績優秀だし、それに内申点も悪くない。むしろ積極的に委員会とかこなしてくれて我がクラスの優等生だ。だけど、気持ちというか、そういうの……なんかその、あるかなって思って……」
最初は早く、だんだんゆっくり。
喋ることぐらいは用意してたの。つまり二者面談? 進路相談ってわけ。
そうかあ、まあそうよね。私は進学希望で、里奈も幸太ちゃんも専門学校行くって言ってたし……。 恵くらい? 大学行くの。まあ、あの子は推薦っぽいけどね。
「先生、心配してくれてるんですか、嬉しいな……由香感激ですぅ……」
両手を合わせて首をかしげてにっこり笑う。
鏡の前でやったら吐きそうになったけど、彼はどう見てくれるかしら?
「先生、由香、お礼したくなっちゃった……。ねえ、先生も男でしょ? 気持ちよく……なりたいですよね?」
カーテンは……開けたままでいいや。
それよりも早く終わらせよう。
愛の無い精液は肌を汚すから。
「先生、さっきはごめんなさい。童貞なんて言って……」
まったくこの童貞は……。
「でも、もしよかったら、由香が先生のこと男にしてあげますよ……」
気が向いたらね。
「あん、先生のもう元気……」
ベルトきつくしめると余計に目立つよ? スラックスは少し大きめにして余裕を持たせないと……。
「今日は……何分もつかな~?」
三分で終わってよね。
「由香!」
「きゃ!」
彼に跪いたとき、井口は両手で私を抱きしめた。
「ちょ、センセ……やだぁ、今日したいの? ダメですぅ、私生理だし……ね?」
生理は本当だ。少し長いみたいだし。でも、してあげるつもりは無い。浮気はしないつもりだもの。
「ねえ、離して……よ」
汗臭いシャツと力強い抱擁。苦しいだけで嬉しくない。なのにこいつは……。
「由香、君は素敵な子だ。素敵な女性だ。だから、あんなこと、いや、僕も拒めないのが悪かった……」
僕だって、キモイ。
「だが、教師として、いや、男として言う。あんな関係おかしいよ。君にはきっと素敵な人がいるはずだ。だから、もう、傷つくようなこと……しないでくれ……」
「ん……」
苦しい。
笑いを堪えるのに?
だって真顔でいう事? 顔は見えないけどさ……。
なんか変な本読んだのかしら? 夜回り先生とかさ。ダメだよ。あんな人にはなれないだからさ。先生は皆を受験に勝たせればいいんだよ。卒業させればいいんだよ。
「由香……君は魅力的な人……だから……」
「んぅ……」
苦しいよ。
「由香……」
名前、呼ばないで……。
「君は……」
私は素敵じゃない! 魅力的じゃない! 良い子じゃない!
「素敵な人だ……」
ダメだ。こいつから逃げないと。
私は一瞬からだから力を抜いて彼に身を委ねた。そして抱擁が少し楽になったところで一気に彼を突き飛ばす。
「わぁ……」
井口は本棚にぶつかり、それでも真面目な瞳を私に向ける。
きっと怒ってない。きっと嘘じゃない。きっと本気だ。
「し、失礼します」
私は頼まれたことも放り出し、廊下へ出る。
早足で廊下を歩き、階段を二段飛ばして落下するように降りる。
帰り道は人気の無いほう、無いほうへと足を進める。例え遠回りでも構わない。
今は誰にも会いたくない。
見せたくない。
見られたくない。
でも見られた。
井口に私の泣き顔を……。
続き
そりゃそうでしょ。たかが紙切れに書かれた数万字。今更本を読んで人生が変わるかしら?
「そうだ、皆は何か思い出に残る本とかないか? なんでもいいぞ」
まるっきり分かってない。ここは高校。中学校じゃないの。
若手まっしぐらで大学のコネもないあんた相手じゃ張り合いないわよ。
ほら、皆あっち向いてるよ?
「例えば……そうだな、先生なら……」
前もって質問とそういうシミュレーションしてないから言葉に詰まる。
いつものお経みたいな授業はどこに行ったのよ。
「私なら……、ドウテイ……かな?」
私はゆっくり手を上げたあと、彼が指名する前に答えた。
周囲から笑いが零れ、井口は顔を真っ赤にさせている。
安心しなよ、センセ。貴方が童貞だってのは皆知ってるわ。それにそういうの可愛いって言ってる子もいるのよ? 私は気持ち悪いと思ってるけど。
「あ、ああ、高村光太郎のな……うん。あれは先生も大学の頃に読んで……」
「はーい! 先生はドーテーなんですか?」
媚びたような声は確か橘さんだっけ? あの人ってなんか苦手。
だってああいう下品なこと平気で言うんだもん。
あ、人のこと言えないか……。
「はは、僕はまだ始まったばかりかな。教師という道をね」
漏れる失笑の中、彼は頭を掻いて笑っていた。
何が始まったばかりよね。
初まってすらないのにさ……。
***
「どうぞ」
「うん、ありがと」
カモミールのお茶は好きじゃない。
どこか歯磨き粉みたいな匂いがして反射的にうがいをしたくなる。
今日は土曜。私の番だ。
だから彼の家に来た。
こざっぱりとしていて消臭剤が常に人口的な花の香りを立たせている部屋。
二人の女の匂いが混ざっても不快でしかないし、私が買ってきたんだ。
ベッドに座る彼とクッションをわたされた私。
いつもなら私から彼に近づいて、そしてチャックを下ろす手はず。
「ごめんね、幸太ちゃん。私今日……」
不安定だからってピンポイントで来ないでほしい。
っていうか、欲求とシフトを変えてよ。
「んーん、由香ちゃんと二人一緒にいられるだけでも楽しいよ」
昨日だったかおととい? もう一人の彼女にはなんて答えたの?
きっと彼女とのエッチが一番気持ちいいんでしょ?
「ねえ、隣に座っていい?」
「え? うん、いいけど……」
生理のときってなんか嫌。
近くにこられるだけで気持ちが不安定になるんだ。
彼はクッションを掴む私に気付かないのか無用心に近づくと、そのまま肩を抱いてきた。
小さな幼馴染。彼は私の大切な存在。
彼がいたから私でいられる。
私の居場所。私に守られる人。私の自画像を守る人。
もたれると彼の髪から少し汗の匂い。
臭い分類に入るのにさ、なんか変に息が乱れる。
彼の欲望の代わりをさがしているのかしら? とにかく彼から発せられるものがほしい。
なんでもいい。
彼の手が私の下腹部に触れる。
「くすぐったいよ」
「いいでしょ?」
「うん。温かい」
ほしい。
「こうしてあげると楽になるんだよね」
「うん」
鈍痛がむず痒さに紛れていく。
「由香ちゃん」
「ん?」
「大好き」
彼の真っ赤な唇。
苺みたいですももみたいな味。
でも、生理のとき、お腹をさすられて楽になるなんて……、
「由香ちゃん」
「幸太ちゃん」
なんで知ってるの?
***
「なにか用ですか? 先生……」
放課後、教材室の掃除をしていた私を難しい視線で見つめる彼がいたので仕方なく声をかけた。
「いや、その……」
慌てるなら準備なさいよ。なに? この前の続きをしてもらいたいの?
もう彼に抱きしめてもらった。
だから男は必要ない。あと一日ぐらいは……。
「この前の続きなんだが……」
「先生、またですか?」
白い目を素でしてしまったのはこれが初めて。
まさかこんな短絡的な思考の持ち主だったとは思わなかった。
ジョシコウセイにトキメキタイのはわかるけど、仮にも教師でしょ? 我慢なさいよ。なんのためにオナニーしてるの? あの臭くて、まあそれなりに大きいものが変な気を起こさないためでしょ?
「いや、そうじゃなくて、君は平気なのかい?」
「なにがです?」
「歪っていうか、おかしな……そうだ、三角関係っていうのかな? そういうの」
マジでウザイかも。
なに? 私達の関係に口出ししたいの? そりゃ確かに変よ? でも、今は、まだ、上手く……回ってる……わ。
「相沢は来年受験だし、もうそろそろ本腰を入れて……」
「私がそれぐらいで勉強に身が入らなくなるとでもいうんですか?」
「いや、今も相沢は成績優秀だし、それに内申点も悪くない。むしろ積極的に委員会とかこなしてくれて我がクラスの優等生だ。だけど、気持ちというか、そういうの……なんかその、あるかなって思って……」
最初は早く、だんだんゆっくり。
喋ることぐらいは用意してたの。つまり二者面談? 進路相談ってわけ。
そうかあ、まあそうよね。私は進学希望で、里奈も幸太ちゃんも専門学校行くって言ってたし……。 恵くらい? 大学行くの。まあ、あの子は推薦っぽいけどね。
「先生、心配してくれてるんですか、嬉しいな……由香感激ですぅ……」
両手を合わせて首をかしげてにっこり笑う。
鏡の前でやったら吐きそうになったけど、彼はどう見てくれるかしら?
「先生、由香、お礼したくなっちゃった……。ねえ、先生も男でしょ? 気持ちよく……なりたいですよね?」
カーテンは……開けたままでいいや。
それよりも早く終わらせよう。
愛の無い精液は肌を汚すから。
「先生、さっきはごめんなさい。童貞なんて言って……」
まったくこの童貞は……。
「でも、もしよかったら、由香が先生のこと男にしてあげますよ……」
気が向いたらね。
「あん、先生のもう元気……」
ベルトきつくしめると余計に目立つよ? スラックスは少し大きめにして余裕を持たせないと……。
「今日は……何分もつかな~?」
三分で終わってよね。
「由香!」
「きゃ!」
彼に跪いたとき、井口は両手で私を抱きしめた。
「ちょ、センセ……やだぁ、今日したいの? ダメですぅ、私生理だし……ね?」
生理は本当だ。少し長いみたいだし。でも、してあげるつもりは無い。浮気はしないつもりだもの。
「ねえ、離して……よ」
汗臭いシャツと力強い抱擁。苦しいだけで嬉しくない。なのにこいつは……。
「由香、君は素敵な子だ。素敵な女性だ。だから、あんなこと、いや、僕も拒めないのが悪かった……」
僕だって、キモイ。
「だが、教師として、いや、男として言う。あんな関係おかしいよ。君にはきっと素敵な人がいるはずだ。だから、もう、傷つくようなこと……しないでくれ……」
「ん……」
苦しい。
笑いを堪えるのに?
だって真顔でいう事? 顔は見えないけどさ……。
なんか変な本読んだのかしら? 夜回り先生とかさ。ダメだよ。あんな人にはなれないだからさ。先生は皆を受験に勝たせればいいんだよ。卒業させればいいんだよ。
「由香……君は魅力的な人……だから……」
「んぅ……」
苦しいよ。
「由香……」
名前、呼ばないで……。
「君は……」
私は素敵じゃない! 魅力的じゃない! 良い子じゃない!
「素敵な人だ……」
ダメだ。こいつから逃げないと。
私は一瞬からだから力を抜いて彼に身を委ねた。そして抱擁が少し楽になったところで一気に彼を突き飛ばす。
「わぁ……」
井口は本棚にぶつかり、それでも真面目な瞳を私に向ける。
きっと怒ってない。きっと嘘じゃない。きっと本気だ。
「し、失礼します」
私は頼まれたことも放り出し、廊下へ出る。
早足で廊下を歩き、階段を二段飛ばして落下するように降りる。
帰り道は人気の無いほう、無いほうへと足を進める。例え遠回りでも構わない。
今は誰にも会いたくない。
見せたくない。
見られたくない。
でも見られた。
井口に私の泣き顔を……。
続き