「待ちなさいよ」
期待した声ではないが、知っている声。
今はまだ授業中。
なのに、どうしてその子は?
「どこに行く気?」
「どこって、帰るんだよ?」
無表情で振り返る雅美にひるむ早苗だが、なぜか彼女は怒り心頭といった様子。
彼女に嫌われることなどしていないはず。
なのになぜだろう?
友達の見送りにしては、悲しむそぶりも見えない。
「帰るって、学校は?」
「辞めたもん。通えるはずないじゃない」
「……」
「じゃね。ばいばい」
できるだけ感情は押し殺し、それでも、もうこれで終わりなのだという意志をこめて。
「雅美、卑怯よ!」
しかし、腕を掴む早苗はまったく予想できない言葉を投げてくる。
「なにが?」
どこか呆けたように答えてしまうのは、早苗の怒り顔と、赤くなりかけた目を見たから。
「だって、なんでよ。アンタばっかり!」
「私ばっかり何?」
「あたしの隆一君! 返してよ!」
「返すもなにも、早苗のなの? ていうか、私のじゃないし」
そう、これは現実。夢の中のことではないのだから。
「だって、隆一君、あんたのせいで、落ち込んで、もう、全然……、なのに逃げるの? あんた卑怯よ! せめて、隆一君に一言、っていうか、彼のことどう思ってるのよ!」
「それは早苗に関係ないでしょ? それに、本人が聞きに来ればいいじゃない。それもできないのなら、彼だって卑怯……」
「あたし、彼が好きって言った! なのに、どうしてあんたが、隆一君のこと、横から、かすめとって、それなのに、なんで、隆一君、落ち込んで……」
こらえきれなくなったそれが溢れ、こぼれ、廊下に落ちる。
「もう行くね」
早苗の手の力が弱まったのを見計らい、戒めから逃れる。
彼女の恋愛など、まだ見込みがある。
恋愛の手ほどき書には意中の相手が落ち込んでいるときこそチャンスだとあるのだし、むしろ感謝こそされて、恨まれるのは筋違い。
「待ってよ、お願いよ。待って……」
それでもしがみついてくる早苗と、それにつかまってしまう自分。
どこか未練がましくて嫌だった。
「なんでよ、早苗、もういいでしょ? 私、ここに居たくないの」
「ごめん。けど、でも、お願い……、だってさ、見送りぐらい、いいでしょ? だって、友達なのに……」
「……勝手にしなよ」
「ありがと」
振り払うことはしない。早苗は彼女のパーカーの裾をぎゅっと握ると、うつむきながら雅美の後に続く。
「っていうか、授業はいいの?」
廊下を横切るときに聞こえた英語のたどたどしい発音に、今が授業中だと思い出す。
「今、あんたをこのまま放っておいたら絶対後悔するもん」
「そう」
涙ぐむ彼女にハンカチを差し出すと、早苗は遠慮なく鼻をかんでくれた。
階段を下りる雅美。いつもなら一段飛ばして降りるのに、今はそういう気持ちになれない。
「あたしさ、振られたんだ」
「え?」
階段から滑り落ちそうになるのを手すりに掴まることでなんとか防ぐ。
ふわっとした落下感にどきっとしたものの、それ以上に彼女の切ない告白驚いた。
「隆一君に」
「そう」
立ち止まる雅美の脳裏には、日曜日の楽しそうに笑い合う二人の姿が浮かびあがる。
「なにそれ、薄い反応ね。冷たくない?」
「だって、これからがあるじゃん。邪魔者消えるんだし」
「消えないでよ」
消えるという言葉に過剰に反応した早苗はまた腕をぎゅっと掴んでくる。
自分はどれほどの腫れ物なのかと、今まさに思い知る。
まだそのつもりはない。少なくとも続く間は……。
「大丈夫だよ。消えない」
――夢を見たいから。
生きるというには明らかに本末転倒な目的にもかかわらず、雅美は強く頷く。
「雅美は強いね」
「そう?」
「だって、あたしなんて振られただけで、雅美にあたってさ」
「いいよ。別に」
昇降口まではもうすこし。彼女とこれでお別れとなると物悲しいが、振り切りたい記憶でもあると、雅美は留まることをしない。
「ね、あたしがどんな風に振られたか聞いてよ」
先回りして通せんぼするような早苗は少しだけ笑っていた。
「やだよ」
それをかわして靴箱へ向かう雅美。
「いいじゃん。友達でしょ?」
すがりつく早苗はまた彼女の袖をきゅっとつかむ。
「邪魔だよ」
「いいの、聞きなさい」
どうしても聞かせたいらしい早苗は、雅美の頬を両手でひっぱり、しゃべられないようにする。
「わはっらわはっらいらいからはらひれ」
頬を押さえて邪魔物な友達を見つめる雅美。その目は涙をたたえても、赤くはならない。
根負けした雅美は傘たてに腰かけ、早苗を見つめる。
「んとね、試合でさ、なんか隆一君力がいい具合に抜けてる感じでさ、すごいんだよ。本当にハットトリックきめたもん。あ、三試合全部あわせてだよ?」
「へー」
――夢と真逆。
「それでね、あたし、帰る途中にさ、隆一君に言ったの。『今日の試合、すごくかっこよかったよ』って」
「いつもだよ」
「知ってるわよ。んでね、そしたら彼なんて言ったと思う? 『ありがと。んでも、悔しいな』だってさ」
「勝ったのに?」
相槌を打つと、早苗も自分の話に雅美が乗ってきたと理解し、得意になって指を立てる。
「うん。だけど『雅美ちゃんに見せられなくってさ』とか言うのよ。失礼だと思わない? せっかくあたしが応援してあげてるのにさ」
「うん……」
――私だって見たかったよ。君のかっこいいとこ。
きっとそのとき、自分は……。
暗い記憶が忍び寄りそうになったとき、早苗の手がまた袖を引っ張る。
暗闇にとらわれそうな気持ちを引っ張りあげてくれる。
そんな気がした。
「あたしが『雅美のこと好きなの?』って聞いたらなんか試合で勝ったときよりいい笑顔でさ、『うん』だってさ……」
ひとさし指が鼻の前に来る。
「そう、だったんだ」
「もう、さっきから薄いぞ! あー憎たらしい! こいつめ、こいつめ!」
そしてまた両頬をつねられること数回。
その痛みは、紛れもなく現実の証。
「あ……、えっと、もうそろそろ授業戻るわ」
「え? ちょっと早苗?」
またも現実は急展開を示す。
早苗は外を見つめたと思うと、急にきびすを返し、すたすたと昇降口を後にする。
「けど、たまにメールでも電話でも、頂戴ね! えっと、さぁよ……じゃない、またね!」
唐突に去っていく早苗に困惑しつつも、もう未練もないと、靴を履き替える雅美。
荷物を降ろし、上履きを無造作に袋に入れる。
――もう使わないしね、汚れてもいいや。はは、なんか私みたい。
「それじゃ汚れるよ。ほら、俺がもってやるから……」
そしてまた声。
今度はつねる人が居ないのだが?
続く「待ちなさいよ」
期待した声ではないが、知っている声。
今はまだ授業中。
なのに、どうしてその子は?
「どこに行く気?」
「どこって、帰るんだよ?」
無表情で振り返る雅美にひるむ早苗だが、なぜか彼女は怒り心頭といった様子。
彼女に嫌われることなどしていないはず。
なのになぜだろう?
友達の見送りにしては、悲しむそぶりも見えない。
「帰るって、学校は?」
「辞めたもん。通えるはずないじゃない」
「……」
「じゃね。ばいばい」
できるだけ感情は押し殺し、それでも、もうこれで終わりなのだという意志をこめて。
「雅美、卑怯よ!」
しかし、腕を掴む早苗はまったく予想できない言葉を投げてくる。
「なにが?」
どこか呆けたように答えてしまうのは、早苗の怒り顔と、赤くなりかけた目を見たから。
「だって、なんでよ。アンタばっかり!」
「私ばっかり何?」
「あたしの隆一君! 返してよ!」
「返すもなにも、早苗のなの? ていうか、私のじゃないし」
そう、これは現実。夢の中のことではないのだから。
「だって、隆一君、あんたのせいで、落ち込んで、もう、全然……、なのに逃げるの? あんた卑怯よ! せめて、隆一君に一言、っていうか、彼のことどう思ってるのよ!」
「それは早苗に関係ないでしょ? それに、本人が聞きに来ればいいじゃない。それもできないのなら、彼だって卑怯……」
「あたし、彼が好きって言った! なのに、どうしてあんたが、隆一君のこと、横から、かすめとって、それなのに、なんで、隆一君、落ち込んで……」
こらえきれなくなったそれが溢れ、こぼれ、廊下に落ちる。
「もう行くね」
早苗の手の力が弱まったのを見計らい、戒めから逃れる。
彼女の恋愛など、まだ見込みがある。
恋愛の手ほどき書には意中の相手が落ち込んでいるときこそチャンスだとあるのだし、むしろ感謝こそされて、恨まれるのは筋違い。
「待ってよ、お願いよ。待って……」
それでもしがみついてくる早苗と、それにつかまってしまう自分。
どこか未練がましくて嫌だった。
「なんでよ、早苗、もういいでしょ? 私、ここに居たくないの」
「ごめん。けど、でも、お願い……、だってさ、見送りぐらい、いいでしょ? だって、友達なのに……」
「……勝手にしなよ」
「ありがと」
振り払うことはしない。早苗は彼女のパーカーの裾をぎゅっと握ると、うつむきながら雅美の後に続く。
「っていうか、授業はいいの?」
廊下を横切るときに聞こえた英語のたどたどしい発音に、今が授業中だと思い出す。
「今、あんたをこのまま放っておいたら絶対後悔するもん」
「そう」
涙ぐむ彼女にハンカチを差し出すと、早苗は遠慮なく鼻をかんでくれた。
階段を下りる雅美。いつもなら一段飛ばして降りるのに、今はそういう気持ちになれない。
「あたしさ、振られたんだ」
「え?」
階段から滑り落ちそうになるのを手すりに掴まることでなんとか防ぐ。
ふわっとした落下感にどきっとしたものの、それ以上に彼女の切ない告白驚いた。
「隆一君に」
「そう」
立ち止まる雅美の脳裏には、日曜日の楽しそうに笑い合う二人の姿が浮かびあがる。
「なにそれ、薄い反応ね。冷たくない?」
「だって、これからがあるじゃん。邪魔者消えるんだし」
「消えないでよ」
消えるという言葉に過剰に反応した早苗はまた腕をぎゅっと掴んでくる。
自分はどれほどの腫れ物なのかと、今まさに思い知る。
まだそのつもりはない。少なくとも続く間は……。
「大丈夫だよ。消えない」
――夢を見たいから。
生きるというには明らかに本末転倒な目的にもかかわらず、雅美は強く頷く。
「雅美は強いね」
「そう?」
「だって、あたしなんて振られただけで、雅美にあたってさ」
「いいよ。別に」
昇降口まではもうすこし。彼女とこれでお別れとなると物悲しいが、振り切りたい記憶でもあると、雅美は留まることをしない。
「ね、あたしがどんな風に振られたか聞いてよ」
先回りして通せんぼするような早苗は少しだけ笑っていた。
「やだよ」
それをかわして靴箱へ向かう雅美。
「いいじゃん。友達でしょ?」
すがりつく早苗はまた彼女の袖をきゅっとつかむ。
「邪魔だよ」
「いいの、聞きなさい」
どうしても聞かせたいらしい早苗は、雅美の頬を両手でひっぱり、しゃべられないようにする。
「わはっらわはっらいらいからはらひれ」
頬を押さえて邪魔物な友達を見つめる雅美。その目は涙をたたえても、赤くはならない。
根負けした雅美は傘たてに腰かけ、早苗を見つめる。
「んとね、試合でさ、なんか隆一君力がいい具合に抜けてる感じでさ、すごいんだよ。本当にハットトリックきめたもん。あ、三試合全部あわせてだよ?」
「へー」
――夢と真逆。
「それでね、あたし、帰る途中にさ、隆一君に言ったの。『今日の試合、すごくかっこよかったよ』って」
「いつもだよ」
「知ってるわよ。んでね、そしたら彼なんて言ったと思う? 『ありがと。んでも、悔しいな』だってさ」
「勝ったのに?」
相槌を打つと、早苗も自分の話に雅美が乗ってきたと理解し、得意になって指を立てる。
「うん。だけど『雅美ちゃんに見せられなくってさ』とか言うのよ。失礼だと思わない? せっかくあたしが応援してあげてるのにさ」
「うん……」
――私だって見たかったよ。君のかっこいいとこ。
きっとそのとき、自分は……。
暗い記憶が忍び寄りそうになったとき、早苗の手がまた袖を引っ張る。
暗闇にとらわれそうな気持ちを引っ張りあげてくれる。
そんな気がした。
「あたしが『雅美のこと好きなの?』って聞いたらなんか試合で勝ったときよりいい笑顔でさ、『うん』だってさ……」
ひとさし指が鼻の前に来る。
「そう、だったんだ」
「もう、さっきから薄いぞ! あー憎たらしい! こいつめ、こいつめ!」
そしてまた両頬をつねられること数回。
その痛みは、紛れもなく現実の証。
「あ……、えっと、もうそろそろ授業戻るわ」
「え? ちょっと早苗?」
またも現実は急展開を示す。
早苗は外を見つめたと思うと、急にきびすを返し、すたすたと昇降口を後にする。
「けど、たまにメールでも電話でも、頂戴ね! えっと、さぁよ……じゃない、またね!」
唐突に去っていく早苗に困惑しつつも、もう未練もないと、靴を履き替える雅美。
荷物を降ろし、上履きを無造作に袋に入れる。
――もう使わないしね、汚れてもいいや。はは、なんか私みたい。
「それじゃ汚れるよ。ほら、俺がもってやるから……」
そしてまた声。
今度はつねる人が居ないのだが?
続く
今はまだ授業中。
なのに、どうしてその子は?
「どこに行く気?」
「どこって、帰るんだよ?」
無表情で振り返る雅美にひるむ早苗だが、なぜか彼女は怒り心頭といった様子。
彼女に嫌われることなどしていないはず。
なのになぜだろう?
友達の見送りにしては、悲しむそぶりも見えない。
「帰るって、学校は?」
「辞めたもん。通えるはずないじゃない」
「……」
「じゃね。ばいばい」
できるだけ感情は押し殺し、それでも、もうこれで終わりなのだという意志をこめて。
「雅美、卑怯よ!」
しかし、腕を掴む早苗はまったく予想できない言葉を投げてくる。
「なにが?」
どこか呆けたように答えてしまうのは、早苗の怒り顔と、赤くなりかけた目を見たから。
「だって、なんでよ。アンタばっかり!」
「私ばっかり何?」
「あたしの隆一君! 返してよ!」
「返すもなにも、早苗のなの? ていうか、私のじゃないし」
そう、これは現実。夢の中のことではないのだから。
「だって、隆一君、あんたのせいで、落ち込んで、もう、全然……、なのに逃げるの? あんた卑怯よ! せめて、隆一君に一言、っていうか、彼のことどう思ってるのよ!」
「それは早苗に関係ないでしょ? それに、本人が聞きに来ればいいじゃない。それもできないのなら、彼だって卑怯……」
「あたし、彼が好きって言った! なのに、どうしてあんたが、隆一君のこと、横から、かすめとって、それなのに、なんで、隆一君、落ち込んで……」
こらえきれなくなったそれが溢れ、こぼれ、廊下に落ちる。
「もう行くね」
早苗の手の力が弱まったのを見計らい、戒めから逃れる。
彼女の恋愛など、まだ見込みがある。
恋愛の手ほどき書には意中の相手が落ち込んでいるときこそチャンスだとあるのだし、むしろ感謝こそされて、恨まれるのは筋違い。
「待ってよ、お願いよ。待って……」
それでもしがみついてくる早苗と、それにつかまってしまう自分。
どこか未練がましくて嫌だった。
「なんでよ、早苗、もういいでしょ? 私、ここに居たくないの」
「ごめん。けど、でも、お願い……、だってさ、見送りぐらい、いいでしょ? だって、友達なのに……」
「……勝手にしなよ」
「ありがと」
振り払うことはしない。早苗は彼女のパーカーの裾をぎゅっと握ると、うつむきながら雅美の後に続く。
「っていうか、授業はいいの?」
廊下を横切るときに聞こえた英語のたどたどしい発音に、今が授業中だと思い出す。
「今、あんたをこのまま放っておいたら絶対後悔するもん」
「そう」
涙ぐむ彼女にハンカチを差し出すと、早苗は遠慮なく鼻をかんでくれた。
階段を下りる雅美。いつもなら一段飛ばして降りるのに、今はそういう気持ちになれない。
「あたしさ、振られたんだ」
「え?」
階段から滑り落ちそうになるのを手すりに掴まることでなんとか防ぐ。
ふわっとした落下感にどきっとしたものの、それ以上に彼女の切ない告白驚いた。
「隆一君に」
「そう」
立ち止まる雅美の脳裏には、日曜日の楽しそうに笑い合う二人の姿が浮かびあがる。
「なにそれ、薄い反応ね。冷たくない?」
「だって、これからがあるじゃん。邪魔者消えるんだし」
「消えないでよ」
消えるという言葉に過剰に反応した早苗はまた腕をぎゅっと掴んでくる。
自分はどれほどの腫れ物なのかと、今まさに思い知る。
まだそのつもりはない。少なくとも続く間は……。
「大丈夫だよ。消えない」
――夢を見たいから。
生きるというには明らかに本末転倒な目的にもかかわらず、雅美は強く頷く。
「雅美は強いね」
「そう?」
「だって、あたしなんて振られただけで、雅美にあたってさ」
「いいよ。別に」
昇降口まではもうすこし。彼女とこれでお別れとなると物悲しいが、振り切りたい記憶でもあると、雅美は留まることをしない。
「ね、あたしがどんな風に振られたか聞いてよ」
先回りして通せんぼするような早苗は少しだけ笑っていた。
「やだよ」
それをかわして靴箱へ向かう雅美。
「いいじゃん。友達でしょ?」
すがりつく早苗はまた彼女の袖をきゅっとつかむ。
「邪魔だよ」
「いいの、聞きなさい」
どうしても聞かせたいらしい早苗は、雅美の頬を両手でひっぱり、しゃべられないようにする。
「わはっらわはっらいらいからはらひれ」
頬を押さえて邪魔物な友達を見つめる雅美。その目は涙をたたえても、赤くはならない。
根負けした雅美は傘たてに腰かけ、早苗を見つめる。
「んとね、試合でさ、なんか隆一君力がいい具合に抜けてる感じでさ、すごいんだよ。本当にハットトリックきめたもん。あ、三試合全部あわせてだよ?」
「へー」
――夢と真逆。
「それでね、あたし、帰る途中にさ、隆一君に言ったの。『今日の試合、すごくかっこよかったよ』って」
「いつもだよ」
「知ってるわよ。んでね、そしたら彼なんて言ったと思う? 『ありがと。んでも、悔しいな』だってさ」
「勝ったのに?」
相槌を打つと、早苗も自分の話に雅美が乗ってきたと理解し、得意になって指を立てる。
「うん。だけど『雅美ちゃんに見せられなくってさ』とか言うのよ。失礼だと思わない? せっかくあたしが応援してあげてるのにさ」
「うん……」
――私だって見たかったよ。君のかっこいいとこ。
きっとそのとき、自分は……。
暗い記憶が忍び寄りそうになったとき、早苗の手がまた袖を引っ張る。
暗闇にとらわれそうな気持ちを引っ張りあげてくれる。
そんな気がした。
「あたしが『雅美のこと好きなの?』って聞いたらなんか試合で勝ったときよりいい笑顔でさ、『うん』だってさ……」
ひとさし指が鼻の前に来る。
「そう、だったんだ」
「もう、さっきから薄いぞ! あー憎たらしい! こいつめ、こいつめ!」
そしてまた両頬をつねられること数回。
その痛みは、紛れもなく現実の証。
「あ……、えっと、もうそろそろ授業戻るわ」
「え? ちょっと早苗?」
またも現実は急展開を示す。
早苗は外を見つめたと思うと、急にきびすを返し、すたすたと昇降口を後にする。
「けど、たまにメールでも電話でも、頂戴ね! えっと、さぁよ……じゃない、またね!」
唐突に去っていく早苗に困惑しつつも、もう未練もないと、靴を履き替える雅美。
荷物を降ろし、上履きを無造作に袋に入れる。
――もう使わないしね、汚れてもいいや。はは、なんか私みたい。
「それじゃ汚れるよ。ほら、俺がもってやるから……」
そしてまた声。
今度はつねる人が居ないのだが?
続く「待ちなさいよ」
期待した声ではないが、知っている声。
今はまだ授業中。
なのに、どうしてその子は?
「どこに行く気?」
「どこって、帰るんだよ?」
無表情で振り返る雅美にひるむ早苗だが、なぜか彼女は怒り心頭といった様子。
彼女に嫌われることなどしていないはず。
なのになぜだろう?
友達の見送りにしては、悲しむそぶりも見えない。
「帰るって、学校は?」
「辞めたもん。通えるはずないじゃない」
「……」
「じゃね。ばいばい」
できるだけ感情は押し殺し、それでも、もうこれで終わりなのだという意志をこめて。
「雅美、卑怯よ!」
しかし、腕を掴む早苗はまったく予想できない言葉を投げてくる。
「なにが?」
どこか呆けたように答えてしまうのは、早苗の怒り顔と、赤くなりかけた目を見たから。
「だって、なんでよ。アンタばっかり!」
「私ばっかり何?」
「あたしの隆一君! 返してよ!」
「返すもなにも、早苗のなの? ていうか、私のじゃないし」
そう、これは現実。夢の中のことではないのだから。
「だって、隆一君、あんたのせいで、落ち込んで、もう、全然……、なのに逃げるの? あんた卑怯よ! せめて、隆一君に一言、っていうか、彼のことどう思ってるのよ!」
「それは早苗に関係ないでしょ? それに、本人が聞きに来ればいいじゃない。それもできないのなら、彼だって卑怯……」
「あたし、彼が好きって言った! なのに、どうしてあんたが、隆一君のこと、横から、かすめとって、それなのに、なんで、隆一君、落ち込んで……」
こらえきれなくなったそれが溢れ、こぼれ、廊下に落ちる。
「もう行くね」
早苗の手の力が弱まったのを見計らい、戒めから逃れる。
彼女の恋愛など、まだ見込みがある。
恋愛の手ほどき書には意中の相手が落ち込んでいるときこそチャンスだとあるのだし、むしろ感謝こそされて、恨まれるのは筋違い。
「待ってよ、お願いよ。待って……」
それでもしがみついてくる早苗と、それにつかまってしまう自分。
どこか未練がましくて嫌だった。
「なんでよ、早苗、もういいでしょ? 私、ここに居たくないの」
「ごめん。けど、でも、お願い……、だってさ、見送りぐらい、いいでしょ? だって、友達なのに……」
「……勝手にしなよ」
「ありがと」
振り払うことはしない。早苗は彼女のパーカーの裾をぎゅっと握ると、うつむきながら雅美の後に続く。
「っていうか、授業はいいの?」
廊下を横切るときに聞こえた英語のたどたどしい発音に、今が授業中だと思い出す。
「今、あんたをこのまま放っておいたら絶対後悔するもん」
「そう」
涙ぐむ彼女にハンカチを差し出すと、早苗は遠慮なく鼻をかんでくれた。
階段を下りる雅美。いつもなら一段飛ばして降りるのに、今はそういう気持ちになれない。
「あたしさ、振られたんだ」
「え?」
階段から滑り落ちそうになるのを手すりに掴まることでなんとか防ぐ。
ふわっとした落下感にどきっとしたものの、それ以上に彼女の切ない告白驚いた。
「隆一君に」
「そう」
立ち止まる雅美の脳裏には、日曜日の楽しそうに笑い合う二人の姿が浮かびあがる。
「なにそれ、薄い反応ね。冷たくない?」
「だって、これからがあるじゃん。邪魔者消えるんだし」
「消えないでよ」
消えるという言葉に過剰に反応した早苗はまた腕をぎゅっと掴んでくる。
自分はどれほどの腫れ物なのかと、今まさに思い知る。
まだそのつもりはない。少なくとも続く間は……。
「大丈夫だよ。消えない」
――夢を見たいから。
生きるというには明らかに本末転倒な目的にもかかわらず、雅美は強く頷く。
「雅美は強いね」
「そう?」
「だって、あたしなんて振られただけで、雅美にあたってさ」
「いいよ。別に」
昇降口まではもうすこし。彼女とこれでお別れとなると物悲しいが、振り切りたい記憶でもあると、雅美は留まることをしない。
「ね、あたしがどんな風に振られたか聞いてよ」
先回りして通せんぼするような早苗は少しだけ笑っていた。
「やだよ」
それをかわして靴箱へ向かう雅美。
「いいじゃん。友達でしょ?」
すがりつく早苗はまた彼女の袖をきゅっとつかむ。
「邪魔だよ」
「いいの、聞きなさい」
どうしても聞かせたいらしい早苗は、雅美の頬を両手でひっぱり、しゃべられないようにする。
「わはっらわはっらいらいからはらひれ」
頬を押さえて邪魔物な友達を見つめる雅美。その目は涙をたたえても、赤くはならない。
根負けした雅美は傘たてに腰かけ、早苗を見つめる。
「んとね、試合でさ、なんか隆一君力がいい具合に抜けてる感じでさ、すごいんだよ。本当にハットトリックきめたもん。あ、三試合全部あわせてだよ?」
「へー」
――夢と真逆。
「それでね、あたし、帰る途中にさ、隆一君に言ったの。『今日の試合、すごくかっこよかったよ』って」
「いつもだよ」
「知ってるわよ。んでね、そしたら彼なんて言ったと思う? 『ありがと。んでも、悔しいな』だってさ」
「勝ったのに?」
相槌を打つと、早苗も自分の話に雅美が乗ってきたと理解し、得意になって指を立てる。
「うん。だけど『雅美ちゃんに見せられなくってさ』とか言うのよ。失礼だと思わない? せっかくあたしが応援してあげてるのにさ」
「うん……」
――私だって見たかったよ。君のかっこいいとこ。
きっとそのとき、自分は……。
暗い記憶が忍び寄りそうになったとき、早苗の手がまた袖を引っ張る。
暗闇にとらわれそうな気持ちを引っ張りあげてくれる。
そんな気がした。
「あたしが『雅美のこと好きなの?』って聞いたらなんか試合で勝ったときよりいい笑顔でさ、『うん』だってさ……」
ひとさし指が鼻の前に来る。
「そう、だったんだ」
「もう、さっきから薄いぞ! あー憎たらしい! こいつめ、こいつめ!」
そしてまた両頬をつねられること数回。
その痛みは、紛れもなく現実の証。
「あ……、えっと、もうそろそろ授業戻るわ」
「え? ちょっと早苗?」
またも現実は急展開を示す。
早苗は外を見つめたと思うと、急にきびすを返し、すたすたと昇降口を後にする。
「けど、たまにメールでも電話でも、頂戴ね! えっと、さぁよ……じゃない、またね!」
唐突に去っていく早苗に困惑しつつも、もう未練もないと、靴を履き替える雅美。
荷物を降ろし、上履きを無造作に袋に入れる。
――もう使わないしね、汚れてもいいや。はは、なんか私みたい。
「それじゃ汚れるよ。ほら、俺がもってやるから……」
そしてまた声。
今度はつねる人が居ないのだが?
続く