我ながら間抜けなことを聞いていると思う。
超常現象といえるほどでもないが、あの不可解な女を見たあとでの異常なら、それはつまり……、
―― 今 お 前 の 後 ろ に あ の 女 が い る ! !
一瞬にして背筋が凍りつく。
いつのまに移動していたのか?
歩道を渡るときか?
俺の視界から消えたあとにこっそりつけられていたのならありうる。
理由はわからないが。
だが、そうだとして先輩が今気付く理由は?
それともずっと気付いていて言えなかったのか?
わからない。
いったい背後で何があったんだ?
教えてくれ。
背後にある気配が得体の知れない何かに変わると、恐怖が沸き起こり、そしてある気持ちが生まれ出る。
振 り 向 い た ら ?
それは好奇心。
――先輩、大丈夫ですか!
偽りの心配で私は振り向いた。
黒の喪服女。
そして立ちすくむ先輩。
変わる信号。
赤から青へ。
女が手を伸ばしたとき、先輩は道路へ飛び出した。
けたたましいクラクション。
鉄の塊に弾かれ、歩道に叩きつけられる先輩。
それを見つめる女の顔は……、
暗闇に紛れているのかまったく見えず、それなのに唇の赤が目立つ。
生きているというよりも、そこに浮かんでいるような、そんな存在。
それなのに、
女の指が自分に向く。
――え? 俺?
視線は見えない。
唇が見えたような気がする。
それが、少し歪んだのが、
哂っていたように見えた。
それが印象的だった。
~~
「死神……ってやつですかね?」
「そうかもしれない」
話い終えた彼にチェイサーを差し出す。
彼はそれをぐびぐびと飲むが、それはロックの合間に飲むという風ではない。
胸に詰まるものを飲み下すため。
そう感じた。
「はぁ……、悪いね、つまらない話をして」
「いえ、なかなか興味深い……」
私が思い出したのは定番の都市伝説。
交差点に立つ女だ。
自分にだけ見えるらしく、周囲の人は気にかけない。
なら自分も知らぬふりをすればよい。
けれど、すれ違い様に
――見えてるくせに……。
その話の亜種だろう。
「……できあがりぃ!」
彼が残りのボウモアを飲み干そうとしたとき、調理場の方から声がした。
テーブル席の料理が出来上がったのだろう。
私は彼に視線で一礼し、席を外す。
「はいこれ三番テーブルね」
「はいはい……うわっ!」
「ぶっ!」
勢いよく開かれた扉から現れたのは黒いアンサンブル姿の女。
顔色は青白く、唇は異常なほどに赤い。
これではまるで……、
「何? どうかしたの?」
きょとんとした表情で私を見返すバイトの子。
よくよく見れば顔色はただのブラックライトの反射の青。
唇も最近はやりのカラーでしかなく、アンサンブルと思っていたのは黒のエプロンとカーディガン。最近寒くなってきたから用意させたものだ。
「いや、なんでもない」
「はは、驚いた……」
まだ腑に落ちないといった表情の彼女を無視し、私は三番テーブルに料理を届ける。
その帰り道、例のお客さんが最後のオーダーをしていた。
「……円になります」
差し出された紙幣と小銭を数え、お釣りを渡す。
「ありがとうございました、またお越しください」
「ありが……へっくしゅっ!」
「風邪ですか?」
私がポケットティッシュを差し出すと、お客さんは遠慮なく鼻をかむ。
「最近流行ってますからね。まあ、誰かにうつしてしまえば治るっていいますけど……」
お客さんはティッシュを丸めるとそのままポケットにしまい、ドアの外を眺めている。
「? どうかしましたか?」
「いや、まるで風邪だなって思って……」
いつもなら会計を終えたらすぐに帰るはずのお客は、何か感慨深そうに頷いている。
「……あのさ、さっきの先輩なんだけどさ……」
「はい」
「先輩もやっぱり別の人からあの女のことを聞いてたみたいなんだ。あ、その人は元気だよ。今もピンピンしてるし」
「へえ」
「だから、その……」
やはり要領を得ない……?
「ちなみに、その先輩は入院中ですか?」
「 い や ……、
死 ん だ よ …… 」
違った。この人はぼかしていたんだ。意識的に……。
~~
葬式に来た女性がもしアンサンブル姿ばかりなら、きっとその先輩浮かばれないだろう。
そんなことを考えながら、私はグラスを磨いていた。
今日はもう店を閉めるべきだろうか?
いや、通りには先ほどから人がいる。
待ち人来ず……か。
それから……見知ったお客さんが一人、うん、入ってきた。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
「へへ、調子いいな」
「今日はなんにします?」
「そうだね、とりあえず生中くれよ。あと、若鶏のから揚げね」
「はい。……オーダー入りました。若鶏のから揚げひとつ、お願いします」
厨房に声をかけ、ビールサーバーへ向かう。
生ビールは泡が命。
グラスを傾け、最初は少し。それから注ぎながらグラスを立てる中ほどまで注いだら一度止めて、最後にもう少し。
これが泡を長持ちさせる注ぎ方。
新人の頃は失敗するたびにそれを自腹で飲んでいたせいか、あまりビールは好きではない。
「どうぞ」
「おう、ありがと。あー最近寒いね。景気は悪いし、なんか楽しい話はない?」
「そうですね……」
私は少し考えたふりをしてから……、
「最近の話なのですが、アンサンブルっていうんですか? 喪服姿の女性をよく見かけるんです……」
このお客さんが店の外にいた女性とすれ違ったとき、理解した。
「顔色は青白く、唇は血のように赤くて……」
彼は誰かとすれ違ったことに気付いていない。
「へえ、美人なの?」
「いえ、顔はわからないんですよ」
おそらくは……、
そう、
風邪のようなものだ……。
――なんでです? 何かあったんですか?
我ながら間抜けなことを聞いていると思う。
超常現象といえるほどでもないが、あの不可解な女を見たあとでの異常なら、それはつまり……、
―― 今 お 前 の 後 ろ に あ の 女 が い る ! !
一瞬にして背筋が凍りつく。
いつのまに移動していたのか?
歩道を渡るときか?
俺の視界から消えたあとにこっそりつけられていたのならありうる。
理由はわからないが。
だが、そうだとして先輩が今気付く理由は?
それともずっと気付いていて言えなかったのか?
わからない。
いったい背後で何があったんだ?
教えてくれ。
背後にある気配が得体の知れない何かに変わると、恐怖が沸き起こり、そしてある気持ちが生まれ出る。
振 り 向 い た ら ?
それは好奇心。
――先輩、大丈夫ですか!
偽りの心配で私は振り向いた。
黒の喪服女。
そして立ちすくむ先輩。
変わる信号。
赤から青へ。
女が手を伸ばしたとき、先輩は道路へ飛び出した。
けたたましいクラクション。
鉄の塊に弾かれ、歩道に叩きつけられる先輩。
それを見つめる女の顔は……、
暗闇に紛れているのかまったく見えず、それなのに唇の赤が目立つ。
生きているというよりも、そこに浮かんでいるような、そんな存在。
それなのに、
女の指が自分に向く。
――え? 俺?
視線は見えない。
唇が見えたような気がする。
それが、少し歪んだのが、
哂っていたように見えた。
それが印象的だった。
~~
「死神……ってやつですかね?」
「そうかもしれない」
話い終えた彼にチェイサーを差し出す。
彼はそれをぐびぐびと飲むが、それはロックの合間に飲むという風ではない。
胸に詰まるものを飲み下すため。
そう感じた。
「はぁ……、悪いね、つまらない話をして」
「いえ、なかなか興味深い……」
私が思い出したのは定番の都市伝説。
交差点に立つ女だ。
自分にだけ見えるらしく、周囲の人は気にかけない。
なら自分も知らぬふりをすればよい。
けれど、すれ違い様に
――見えてるくせに……。
その話の亜種だろう。
「……できあがりぃ!」
彼が残りのボウモアを飲み干そうとしたとき、調理場の方から声がした。
テーブル席の料理が出来上がったのだろう。
私は彼に視線で一礼し、席を外す。
「はいこれ三番テーブルね」
「はいはい……うわっ!」
「ぶっ!」
勢いよく開かれた扉から現れたのは黒いアンサンブル姿の女。
顔色は青白く、唇は異常なほどに赤い。
これではまるで……、
「何? どうかしたの?」
きょとんとした表情で私を見返すバイトの子。
よくよく見れば顔色はただのブラックライトの反射の青。
唇も最近はやりのカラーでしかなく、アンサンブルと思っていたのは黒のエプロンとカーディガン。最近寒くなってきたから用意させたものだ。
「いや、なんでもない」
「はは、驚いた……」
まだ腑に落ちないといった表情の彼女を無視し、私は三番テーブルに料理を届ける。
その帰り道、例のお客さんが最後のオーダーをしていた。
「……円になります」
差し出された紙幣と小銭を数え、お釣りを渡す。
「ありがとうございました、またお越しください」
「ありが……へっくしゅっ!」
「風邪ですか?」
私がポケットティッシュを差し出すと、お客さんは遠慮なく鼻をかむ。
「最近流行ってますからね。まあ、誰かにうつしてしまえば治るっていいますけど……」
お客さんはティッシュを丸めるとそのままポケットにしまい、ドアの外を眺めている。
「? どうかしましたか?」
「いや、まるで風邪だなって思って……」
いつもなら会計を終えたらすぐに帰るはずのお客は、何か感慨深そうに頷いている。
「……あのさ、さっきの先輩なんだけどさ……」
「はい」
「先輩もやっぱり別の人からあの女のことを聞いてたみたいなんだ。あ、その人は元気だよ。今もピンピンしてるし」
「へえ」
「だから、その……」
やはり要領を得ない……?
「ちなみに、その先輩は入院中ですか?」
「 い や ……、
死 ん だ よ …… 」
違った。この人はぼかしていたんだ。意識的に……。
~~
葬式に来た女性がもしアンサンブル姿ばかりなら、きっとその先輩浮かばれないだろう。
そんなことを考えながら、私はグラスを磨いていた。
今日はもう店を閉めるべきだろうか?
いや、通りには先ほどから人がいる。
待ち人来ず……か。
それから……見知ったお客さんが一人、うん、入ってきた。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
「へへ、調子いいな」
「今日はなんにします?」
「そうだね、とりあえず生中くれよ。あと、若鶏のから揚げね」
「はい。……オーダー入りました。若鶏のから揚げひとつ、お願いします」
厨房に声をかけ、ビールサーバーへ向かう。
生ビールは泡が命。
グラスを傾け、最初は少し。それから注ぎながらグラスを立てる中ほどまで注いだら一度止めて、最後にもう少し。
これが泡を長持ちさせる注ぎ方。
新人の頃は失敗するたびにそれを自腹で飲んでいたせいか、あまりビールは好きではない。
「どうぞ」
「おう、ありがと。あー最近寒いね。景気は悪いし、なんか楽しい話はない?」
「そうですね……」
私は少し考えたふりをしてから……、
「最近の話なのですが、アンサンブルっていうんですか? 喪服姿の女性をよく見かけるんです……」
このお客さんが店の外にいた女性とすれ違ったとき、理解した。
「顔色は青白く、唇は血のように赤くて……」
彼は誰かとすれ違ったことに気付いていない。
「へえ、美人なの?」
「いえ、顔はわからないんですよ」
おそらくは……、
そう、
風邪のようなものだ……。
風邪のようなもの 完
一瞬にして背筋が凍りつく。
いつのまに移動していたのか?
歩道を渡るときか?
俺の視界から消えたあとにこっそりつけられていたのならありうる。
理由はわからないが。
だが、そうだとして先輩が今気付く理由は?
それともずっと気付いていて言えなかったのか?
わからない。
いったい背後で何があったんだ?
教えてくれ。
背後にある気配が得体の知れない何かに変わると、恐怖が沸き起こり、そしてある気持ちが生まれ出る。
振 り 向 い た ら ?
それは好奇心。
――先輩、大丈夫ですか!
偽りの心配で私は振り向いた。
黒の喪服女。
そして立ちすくむ先輩。
変わる信号。
赤から青へ。
女が手を伸ばしたとき、先輩は道路へ飛び出した。
けたたましいクラクション。
鉄の塊に弾かれ、歩道に叩きつけられる先輩。
それを見つめる女の顔は……、
暗闇に紛れているのかまったく見えず、それなのに唇の赤が目立つ。
生きているというよりも、そこに浮かんでいるような、そんな存在。
それなのに、
女の指が自分に向く。
――え? 俺?
視線は見えない。
唇が見えたような気がする。
それが、少し歪んだのが、
哂っていたように見えた。
それが印象的だった。
~~
「死神……ってやつですかね?」
「そうかもしれない」
話い終えた彼にチェイサーを差し出す。
彼はそれをぐびぐびと飲むが、それはロックの合間に飲むという風ではない。
胸に詰まるものを飲み下すため。
そう感じた。
「はぁ……、悪いね、つまらない話をして」
「いえ、なかなか興味深い……」
私が思い出したのは定番の都市伝説。
交差点に立つ女だ。
自分にだけ見えるらしく、周囲の人は気にかけない。
なら自分も知らぬふりをすればよい。
けれど、すれ違い様に
――見えてるくせに……。
その話の亜種だろう。
「……できあがりぃ!」
彼が残りのボウモアを飲み干そうとしたとき、調理場の方から声がした。
テーブル席の料理が出来上がったのだろう。
私は彼に視線で一礼し、席を外す。
「はいこれ三番テーブルね」
「はいはい……うわっ!」
「ぶっ!」
勢いよく開かれた扉から現れたのは黒いアンサンブル姿の女。
顔色は青白く、唇は異常なほどに赤い。
これではまるで……、
「何? どうかしたの?」
きょとんとした表情で私を見返すバイトの子。
よくよく見れば顔色はただのブラックライトの反射の青。
唇も最近はやりのカラーでしかなく、アンサンブルと思っていたのは黒のエプロンとカーディガン。最近寒くなってきたから用意させたものだ。
「いや、なんでもない」
「はは、驚いた……」
まだ腑に落ちないといった表情の彼女を無視し、私は三番テーブルに料理を届ける。
その帰り道、例のお客さんが最後のオーダーをしていた。
「……円になります」
差し出された紙幣と小銭を数え、お釣りを渡す。
「ありがとうございました、またお越しください」
「ありが……へっくしゅっ!」
「風邪ですか?」
私がポケットティッシュを差し出すと、お客さんは遠慮なく鼻をかむ。
「最近流行ってますからね。まあ、誰かにうつしてしまえば治るっていいますけど……」
お客さんはティッシュを丸めるとそのままポケットにしまい、ドアの外を眺めている。
「? どうかしましたか?」
「いや、まるで風邪だなって思って……」
いつもなら会計を終えたらすぐに帰るはずのお客は、何か感慨深そうに頷いている。
「……あのさ、さっきの先輩なんだけどさ……」
「はい」
「先輩もやっぱり別の人からあの女のことを聞いてたみたいなんだ。あ、その人は元気だよ。今もピンピンしてるし」
「へえ」
「だから、その……」
やはり要領を得ない……?
「ちなみに、その先輩は入院中ですか?」
「 い や ……、
死 ん だ よ …… 」
違った。この人はぼかしていたんだ。意識的に……。
~~
葬式に来た女性がもしアンサンブル姿ばかりなら、きっとその先輩浮かばれないだろう。
そんなことを考えながら、私はグラスを磨いていた。
今日はもう店を閉めるべきだろうか?
いや、通りには先ほどから人がいる。
待ち人来ず……か。
それから……見知ったお客さんが一人、うん、入ってきた。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
「へへ、調子いいな」
「今日はなんにします?」
「そうだね、とりあえず生中くれよ。あと、若鶏のから揚げね」
「はい。……オーダー入りました。若鶏のから揚げひとつ、お願いします」
厨房に声をかけ、ビールサーバーへ向かう。
生ビールは泡が命。
グラスを傾け、最初は少し。それから注ぎながらグラスを立てる中ほどまで注いだら一度止めて、最後にもう少し。
これが泡を長持ちさせる注ぎ方。
新人の頃は失敗するたびにそれを自腹で飲んでいたせいか、あまりビールは好きではない。
「どうぞ」
「おう、ありがと。あー最近寒いね。景気は悪いし、なんか楽しい話はない?」
「そうですね……」
私は少し考えたふりをしてから……、
「最近の話なのですが、アンサンブルっていうんですか? 喪服姿の女性をよく見かけるんです……」
このお客さんが店の外にいた女性とすれ違ったとき、理解した。
「顔色は青白く、唇は血のように赤くて……」
彼は誰かとすれ違ったことに気付いていない。
「へえ、美人なの?」
「いえ、顔はわからないんですよ」
おそらくは……、
そう、
風邪のようなものだ……。
――なんでです? 何かあったんですか?
我ながら間抜けなことを聞いていると思う。
超常現象といえるほどでもないが、あの不可解な女を見たあとでの異常なら、それはつまり……、
―― 今 お 前 の 後 ろ に あ の 女 が い る ! !
一瞬にして背筋が凍りつく。
いつのまに移動していたのか?
歩道を渡るときか?
俺の視界から消えたあとにこっそりつけられていたのならありうる。
理由はわからないが。
だが、そうだとして先輩が今気付く理由は?
それともずっと気付いていて言えなかったのか?
わからない。
いったい背後で何があったんだ?
教えてくれ。
背後にある気配が得体の知れない何かに変わると、恐怖が沸き起こり、そしてある気持ちが生まれ出る。
振 り 向 い た ら ?
それは好奇心。
――先輩、大丈夫ですか!
偽りの心配で私は振り向いた。
黒の喪服女。
そして立ちすくむ先輩。
変わる信号。
赤から青へ。
女が手を伸ばしたとき、先輩は道路へ飛び出した。
けたたましいクラクション。
鉄の塊に弾かれ、歩道に叩きつけられる先輩。
それを見つめる女の顔は……、
暗闇に紛れているのかまったく見えず、それなのに唇の赤が目立つ。
生きているというよりも、そこに浮かんでいるような、そんな存在。
それなのに、
女の指が自分に向く。
――え? 俺?
視線は見えない。
唇が見えたような気がする。
それが、少し歪んだのが、
哂っていたように見えた。
それが印象的だった。
~~
「死神……ってやつですかね?」
「そうかもしれない」
話い終えた彼にチェイサーを差し出す。
彼はそれをぐびぐびと飲むが、それはロックの合間に飲むという風ではない。
胸に詰まるものを飲み下すため。
そう感じた。
「はぁ……、悪いね、つまらない話をして」
「いえ、なかなか興味深い……」
私が思い出したのは定番の都市伝説。
交差点に立つ女だ。
自分にだけ見えるらしく、周囲の人は気にかけない。
なら自分も知らぬふりをすればよい。
けれど、すれ違い様に
――見えてるくせに……。
その話の亜種だろう。
「……できあがりぃ!」
彼が残りのボウモアを飲み干そうとしたとき、調理場の方から声がした。
テーブル席の料理が出来上がったのだろう。
私は彼に視線で一礼し、席を外す。
「はいこれ三番テーブルね」
「はいはい……うわっ!」
「ぶっ!」
勢いよく開かれた扉から現れたのは黒いアンサンブル姿の女。
顔色は青白く、唇は異常なほどに赤い。
これではまるで……、
「何? どうかしたの?」
きょとんとした表情で私を見返すバイトの子。
よくよく見れば顔色はただのブラックライトの反射の青。
唇も最近はやりのカラーでしかなく、アンサンブルと思っていたのは黒のエプロンとカーディガン。最近寒くなってきたから用意させたものだ。
「いや、なんでもない」
「はは、驚いた……」
まだ腑に落ちないといった表情の彼女を無視し、私は三番テーブルに料理を届ける。
その帰り道、例のお客さんが最後のオーダーをしていた。
「……円になります」
差し出された紙幣と小銭を数え、お釣りを渡す。
「ありがとうございました、またお越しください」
「ありが……へっくしゅっ!」
「風邪ですか?」
私がポケットティッシュを差し出すと、お客さんは遠慮なく鼻をかむ。
「最近流行ってますからね。まあ、誰かにうつしてしまえば治るっていいますけど……」
お客さんはティッシュを丸めるとそのままポケットにしまい、ドアの外を眺めている。
「? どうかしましたか?」
「いや、まるで風邪だなって思って……」
いつもなら会計を終えたらすぐに帰るはずのお客は、何か感慨深そうに頷いている。
「……あのさ、さっきの先輩なんだけどさ……」
「はい」
「先輩もやっぱり別の人からあの女のことを聞いてたみたいなんだ。あ、その人は元気だよ。今もピンピンしてるし」
「へえ」
「だから、その……」
やはり要領を得ない……?
「ちなみに、その先輩は入院中ですか?」
「 い や ……、
死 ん だ よ …… 」
違った。この人はぼかしていたんだ。意識的に……。
~~
葬式に来た女性がもしアンサンブル姿ばかりなら、きっとその先輩浮かばれないだろう。
そんなことを考えながら、私はグラスを磨いていた。
今日はもう店を閉めるべきだろうか?
いや、通りには先ほどから人がいる。
待ち人来ず……か。
それから……見知ったお客さんが一人、うん、入ってきた。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
「へへ、調子いいな」
「今日はなんにします?」
「そうだね、とりあえず生中くれよ。あと、若鶏のから揚げね」
「はい。……オーダー入りました。若鶏のから揚げひとつ、お願いします」
厨房に声をかけ、ビールサーバーへ向かう。
生ビールは泡が命。
グラスを傾け、最初は少し。それから注ぎながらグラスを立てる中ほどまで注いだら一度止めて、最後にもう少し。
これが泡を長持ちさせる注ぎ方。
新人の頃は失敗するたびにそれを自腹で飲んでいたせいか、あまりビールは好きではない。
「どうぞ」
「おう、ありがと。あー最近寒いね。景気は悪いし、なんか楽しい話はない?」
「そうですね……」
私は少し考えたふりをしてから……、
「最近の話なのですが、アンサンブルっていうんですか? 喪服姿の女性をよく見かけるんです……」
このお客さんが店の外にいた女性とすれ違ったとき、理解した。
「顔色は青白く、唇は血のように赤くて……」
彼は誰かとすれ違ったことに気付いていない。
「へえ、美人なの?」
「いえ、顔はわからないんですよ」
おそらくは……、
そう、
風邪のようなものだ……。
風邪のようなもの 完