四月の第二週は春の交通安全週間。新入生にしっかり交通ルールを守ってもらうために、PTAが立ち代りで通学路の横断歩道に立つのだ。
ランドセルの一団がやってきたら横断旗と笛で誘導する。たかがそれだけのことなのだけれど、
「ちょっとそこ、信号赤でしょ! 危ないわ!」
信号が赤にも関わらず横断歩道を駆け抜ける小学生達は、私の声などどこ吹く風。目をつぶっているのではないかというぐらいに、威勢よく走っていく。
「まったくもう……」
右を見て左を見て、信号は見ない。車が来なければ急いで渡れ。これが彼らの交通ルール。
彼らの向かう小学校は郊外に立てられたおかげで交通量も少ない。それに半比例するかのような交通ルール。特に遅刻ぎりぎりの生徒達はまるで暴走車のよう。
そんなこんなで午前八時四十分。もうすぐ一時間目のチャイムもなる。
「お疲れ様」
ようやくお役ごめんということで、向こう側で立っていた沢木良子が手を振って駆け寄ってくるので、私達は近くの喫茶店に向かった。
クラッシクがお出迎えする喫茶店は最近の主婦のたまり場。朝の交通指導を終えたおば様たちが集まり、他愛のない話をするのだ。
「困ったわね。全然信号を守ってくれないわ」
コーヒーに砂糖を入れてスプーンでかき回す。
「あらお砂糖? あんまり入れると太るわよ?」
ブラックだとどうしても飲めない私は、いつも良子に笑われる。
どうせ私は三段腹。貴女のようなスタイルではないわ。すごく悔しいけど。
「でも確かに困ったわね。せっかく一年生に守ってもらっても高学年の子が信号無視しちゃしょうがないわ。ああいう悪いことはすぐに真似しちゃうし」
彼女はレモンティーを啜りながら言う。
「そういえば、六年生の子が接触事故を起こしたとかいうじゃない? こわいわよね~」
遅れてやってきた桐崎紀子が怖いというよりは、「しってます?」と言いたげな様子で話を振る。
「そうなの? ……やっぱり危ないわよね。いくら交通量が少ないからって……」
「そうよね。なんか言うこと聞かせられないかしら」
「そういえば事故っていうと、三丁目の田中さん、癌ですって」
事故と病気は違うのに。
「へえ、そうなんですか、まだお若いのに気の毒に……」
といってもなぜか興味津々になるのが私の悪い癖……。
~~
「信号無視? まあそうだね、危ないよね」
夜、息子の英輔を寝かしつけた私は夫の徹に今朝のことを話す。
彼はふんふんと頷くけれど、目は今日買ってきたらしい新書に釘付け。
「もう、ちゃんと聞いてるの? 人の話を聞くときは新聞とか本を読まないの」
私は彼の手から本を取り上げようとするけれど、リーチの差でどうしても負けてしまう。
「あなた!」
こうなったら怒るしかないけど、小じわが増えそうで嫌。
「ごめんごめん。でも、守らせるなんて無理じゃないかな。だって学校前なんて車通りがないだろ? いっそのことあそこは通学時間帯の車の乗り入れ禁止にすればいいんだよそういうのってできないの?」
「そうじゃなくて、交通ルールを守ることを教えたいのよ」
「それこそ無理だよ。君だったら守るかい?」
「ん~。あそこだとわかんない」
「だろう? 君が守れないのに子供達が守るはずないさ」
「そっか」
「そうだよ。それよりさ……英輔寝たんでしょ?」
夫は本を置くと代わりに小さな包みを枕元から取り出す。
「んもう、貴方ったら……制限速度は守ってよ?」
「はいはい、飛び出し注意っと……」
久しぶりに私は愛のガソリンを注いでもらうことにした……。
~~
「はいこんばんわ!」
「ひぃ!」
いきなり肩を叩かれた私は悲鳴のような声を上げる。
「だ、誰って、きゃぁ!」
振り返ってまた悲鳴。
だって、そこに居た男、んーん、男っていうか人間なのかもわからない。そいつは耳がとんがっていて唇がやけに赤くて、それからレンズの入っていない眼鏡越しにぎょろりとした目で私を見てるんですもの。
「だ、誰なの、貴方」
というか、私は夫と一緒に愉しいことをしたあと、そのまま眠ったはず。
「もしかして強盗?」
男の姿はタキシードにエプロンという妙な格好。強盗というには変に目立つ。
「いえいえ」
「じゃあなに? 誘拐?」
「それも違う」
男は首を横に振りながら鷹揚に言う。どこか人の反応を見て楽しんでいるような姿が不快。
「なんなのよ」
たまりかねた私は多少抑えつつも声を荒げる。
「私は悪魔です。ええ、悪魔、なんつって!」
悪魔と名乗る男は何が面白いのか一人で笑い転げ、そのまま何もない空間に落下する。
「え、ちょっと……」
私は慌てて手を差し伸べようとしてしまうが、その姿は小さくなり、すぐに見えなくなる。
「なんなの? いったい……」
「さあ? 悪魔ですから……」
「きゃぁ!」
またも後ろからの声に驚く私。振り返るとやはり悪魔が立っており、ニヤニヤしながら私を見ていた。
「あなた、悪魔なの?」
「え? 信じてくれるの? ふーん、それは話が早い」
「だって……」
こんなことができるのは人間じゃない……? っていうか、ここどこ?
悪魔の異常さに気をとられていた私はようやく辺りを見回す。
黒い。そのひとことに尽きる空間なのだけれど、闇ではない。その証拠に悪魔の姿も自分の姿も見える。そして悪魔の姿もくっきりと。
「それより貴女! ずばりお悩みですね?」
「いいえ」
ここはひとつ、きっぱりと断る。相手が悪魔である以上、変に話をしたりするとろくなことにならない。どうせ契約と称して私の魂とか幸せを奪うのでしょうし。
「まぁまぁそうおっしゃらず。別に魂を奪おうなんて思ってません。というか、もらっても腐らせるだけですしね?」
「まあ、なんて酷い。やっぱり悪魔ね」
「ですからそう申し上げてます。まま、それよりも一つ、お悩みでしょう?」
「ですから悩みはあっても、結構です」
私は胸の前でばってんをつくって突っぱねた。
続く
ランドセルの一団がやってきたら横断旗と笛で誘導する。たかがそれだけのことなのだけれど、
「ちょっとそこ、信号赤でしょ! 危ないわ!」
信号が赤にも関わらず横断歩道を駆け抜ける小学生達は、私の声などどこ吹く風。目をつぶっているのではないかというぐらいに、威勢よく走っていく。
「まったくもう……」
右を見て左を見て、信号は見ない。車が来なければ急いで渡れ。これが彼らの交通ルール。
彼らの向かう小学校は郊外に立てられたおかげで交通量も少ない。それに半比例するかのような交通ルール。特に遅刻ぎりぎりの生徒達はまるで暴走車のよう。
そんなこんなで午前八時四十分。もうすぐ一時間目のチャイムもなる。
「お疲れ様」
ようやくお役ごめんということで、向こう側で立っていた沢木良子が手を振って駆け寄ってくるので、私達は近くの喫茶店に向かった。
クラッシクがお出迎えする喫茶店は最近の主婦のたまり場。朝の交通指導を終えたおば様たちが集まり、他愛のない話をするのだ。
「困ったわね。全然信号を守ってくれないわ」
コーヒーに砂糖を入れてスプーンでかき回す。
「あらお砂糖? あんまり入れると太るわよ?」
ブラックだとどうしても飲めない私は、いつも良子に笑われる。
どうせ私は三段腹。貴女のようなスタイルではないわ。すごく悔しいけど。
「でも確かに困ったわね。せっかく一年生に守ってもらっても高学年の子が信号無視しちゃしょうがないわ。ああいう悪いことはすぐに真似しちゃうし」
彼女はレモンティーを啜りながら言う。
「そういえば、六年生の子が接触事故を起こしたとかいうじゃない? こわいわよね~」
遅れてやってきた桐崎紀子が怖いというよりは、「しってます?」と言いたげな様子で話を振る。
「そうなの? ……やっぱり危ないわよね。いくら交通量が少ないからって……」
「そうよね。なんか言うこと聞かせられないかしら」
「そういえば事故っていうと、三丁目の田中さん、癌ですって」
事故と病気は違うのに。
「へえ、そうなんですか、まだお若いのに気の毒に……」
といってもなぜか興味津々になるのが私の悪い癖……。
~~
「信号無視? まあそうだね、危ないよね」
夜、息子の英輔を寝かしつけた私は夫の徹に今朝のことを話す。
彼はふんふんと頷くけれど、目は今日買ってきたらしい新書に釘付け。
「もう、ちゃんと聞いてるの? 人の話を聞くときは新聞とか本を読まないの」
私は彼の手から本を取り上げようとするけれど、リーチの差でどうしても負けてしまう。
「あなた!」
こうなったら怒るしかないけど、小じわが増えそうで嫌。
「ごめんごめん。でも、守らせるなんて無理じゃないかな。だって学校前なんて車通りがないだろ? いっそのことあそこは通学時間帯の車の乗り入れ禁止にすればいいんだよそういうのってできないの?」
「そうじゃなくて、交通ルールを守ることを教えたいのよ」
「それこそ無理だよ。君だったら守るかい?」
「ん~。あそこだとわかんない」
「だろう? 君が守れないのに子供達が守るはずないさ」
「そっか」
「そうだよ。それよりさ……英輔寝たんでしょ?」
夫は本を置くと代わりに小さな包みを枕元から取り出す。
「んもう、貴方ったら……制限速度は守ってよ?」
「はいはい、飛び出し注意っと……」
久しぶりに私は愛のガソリンを注いでもらうことにした……。
~~
「はいこんばんわ!」
「ひぃ!」
いきなり肩を叩かれた私は悲鳴のような声を上げる。
「だ、誰って、きゃぁ!」
振り返ってまた悲鳴。
だって、そこに居た男、んーん、男っていうか人間なのかもわからない。そいつは耳がとんがっていて唇がやけに赤くて、それからレンズの入っていない眼鏡越しにぎょろりとした目で私を見てるんですもの。
「だ、誰なの、貴方」
というか、私は夫と一緒に愉しいことをしたあと、そのまま眠ったはず。
「もしかして強盗?」
男の姿はタキシードにエプロンという妙な格好。強盗というには変に目立つ。
「いえいえ」
「じゃあなに? 誘拐?」
「それも違う」
男は首を横に振りながら鷹揚に言う。どこか人の反応を見て楽しんでいるような姿が不快。
「なんなのよ」
たまりかねた私は多少抑えつつも声を荒げる。
「私は悪魔です。ええ、悪魔、なんつって!」
悪魔と名乗る男は何が面白いのか一人で笑い転げ、そのまま何もない空間に落下する。
「え、ちょっと……」
私は慌てて手を差し伸べようとしてしまうが、その姿は小さくなり、すぐに見えなくなる。
「なんなの? いったい……」
「さあ? 悪魔ですから……」
「きゃぁ!」
またも後ろからの声に驚く私。振り返るとやはり悪魔が立っており、ニヤニヤしながら私を見ていた。
「あなた、悪魔なの?」
「え? 信じてくれるの? ふーん、それは話が早い」
「だって……」
こんなことができるのは人間じゃない……? っていうか、ここどこ?
悪魔の異常さに気をとられていた私はようやく辺りを見回す。
黒い。そのひとことに尽きる空間なのだけれど、闇ではない。その証拠に悪魔の姿も自分の姿も見える。そして悪魔の姿もくっきりと。
「それより貴女! ずばりお悩みですね?」
「いいえ」
ここはひとつ、きっぱりと断る。相手が悪魔である以上、変に話をしたりするとろくなことにならない。どうせ契約と称して私の魂とか幸せを奪うのでしょうし。
「まぁまぁそうおっしゃらず。別に魂を奪おうなんて思ってません。というか、もらっても腐らせるだけですしね?」
「まあ、なんて酷い。やっぱり悪魔ね」
「ですからそう申し上げてます。まま、それよりも一つ、お悩みでしょう?」
「ですから悩みはあっても、結構です」
私は胸の前でばってんをつくって突っぱねた。
続く