「ごめんね。ちょっと真帆ってばいらいらすることがあって……」
真帆に遅れて通路を歩く三人。梓は小声で真琴に呟く。
「何かあったんですか?」
「うん。ちょっとおかしなファンがいるっていうか、あと、それとは別に今回の役柄でも不満があるらしいの……」
「役柄?」
「えと、主演は真帆のはずなんだけど、ちょっとあってね……」
「梓、聞こえているわよ」
真帆は立ち止まるとくるりと踵を返し、真琴のまん前にやってきて鼻先を突く。
「早く来なさいよ。リハーサル始まっちゃうでしょ?」
――それなら自分がもてばいいのに。
そんな言葉を飲み込みながら、真琴は小走りで彼女を追いかけた……。
-:-
「ご苦労様。外で待ってなさい」
下手側の控え室に着くと、真帆は真琴にそう告げて臙脂色のブレザーを脱いでハンガーにかける。
「……ちょっと、今から着替えなんだけど、何時までいるの? このポンスケベ」
戸惑う真琴にまだ居たのかとばかりに睨みつける。
「あ、ごめんなさい……」
真琴はこれ以上何か言われても適わないと、急いで控え室を出る。
下手側は上手に比べて簡素。舞台裏と表を繋ぐだけの通路といったほうが正しい。モニターが設置されており、舞台の様子を確認することが出来る程度。
演者が身だしなみをチェックできるように洗面台と鏡が備えられており、荷物を置ける棚もある。
むき出しのコンクリートで出来た階段は気休め程度の手すりが付いており、下を見るとそのまま落下してしまいそうな隙間がある。
上手と同じく両開きの扉があり、厚い壁を隔てて片側だけの扉がある。その片側の扉には覗き窓がついており、舞台の様子を見ることが出来る。
「へぇ、こういう風になってるんだ」
澪が舞台の様子を見ているので、梓も隣に立って覗いてみる。
「へ~、初めて見た。舞台裏からだと客席ってこう見えるんだ」
普段はお客様であろう梓は、感心したように呟く。
真琴も何とか見ようとするが、二人に邪魔されてよく見えない。
「ちょっと、ポ……付き人! どこに行ったの?」
すると再び真帆の声。おそらく真琴のことを呼んでいるのだろう、彼は急いで控え室のほうへと走る。
「はいはい、只今」
控え室の前では真帆が腰に手を当てて踏ん反り返っている。ただ、先ほどとは衣装が異なり、パンフレットにあるような可愛らしい白のドレス姿になっていた。
「もう、どこをほっつき歩いていたのかしら。今、第二幕のリハの最中でしょ? 語りは終りそう?」
その姿だけならお姫様といえるのだが、口を開けば烈火のごとく捲くし立てられる。印象もなにもあったものでもない。
「えと、よくわからないけど……」
スタッフといえど急場しのぎでしかない彼は、演目の詳しい内容を知らされていない。だが、真帆はそれを許すつもりは無いらしく、またも彼の鼻先を小突く。
「んもう、ちゃんとプログラムを見ておきなさいよ……。いい? 第二幕と第一幕は歌劇なの。語りと合唱が交互に来ると覚えておきなさい」
「はい、ごめんなさい」
押し切られる形で謝ってしまう真琴に澪は苦笑い。対照的に梓は真っ赤な顔をして真帆に歩み寄り……、
「ちょっと真帆、真琴君は貴女の小間使いじゃないの! 無茶なことを言わないで!」
「何よ、スタッフなんだからそれぐらい知っていてもいいじゃない?」
「スタッフっていってもただのボランティアだもの。それに今日初めて知らされたんでしょ? ね、真琴君」
「う、うん」
梓の推測どおり、真琴も今日の仕事を全て理解しての参加ではなかった。特に言われていたのは先ほどまでに終えた受付の設営と舞台準備、それに幕間時の撤収準備作業のみだ。ワガママな女の子の世話というのは聞いていない。
「ふうん、そうなんだ……」
すると今度は意味深な笑顔を浮かべだす真帆。
「な、なにがそうなのよ」
怯む梓に、真帆はしてやったりとほくそ笑む。
「真琴君ねぇ……」
「何が言いたいのよ!」
声を荒げるも及び腰。
「言ってもいいの?」
「どうぞ……」
さらに小声になり出す始末。
「梓は……、真琴君のことがぁ……」
「ダメダメ! やっぱ言わないで!」
にやりと笑う真帆の口を慌てて閉じる梓。
「あ、五十嵐さん、ここに居たの? もう直ぐ第二幕のリハーサルだから準備して」
そこへ飛び込んできたのは由真の凛とした声。彼女は急かすようにジェスチャーをすると、上手側に走る。
「あーもう……、とにかく第二幕が終るまでにミルクルを用意しておいてね。ストロー付きよ。お願いね、真琴君!」
とってつけたように「君」とつける真帆は、ドレスの裾を持つとパタパタと駆けて行った。
「なんか、役柄とは全然イメージの違う子ね……」
最中蚊帳の外に居た澪がそう呟くと、梓はため息をつく。
「あのね、本当はあそこまで荒れる子じゃないのよ。ちょっとあって……」
「あ、さっき言ってた役柄のこと? 主演がどうのっていうの」
「うん。あのね、今回の歌劇の演目「冴えない老猫」の主役は真帆なんだけどさ、パンフレット見てよ……」
言われるままにパンフレットを見る二人。そこには確かに「冴えない老猫」とあるが、真帆は出演者一覧に顔を並べるだけで、別段ピックアップされている様子はない。
メインには「ピアノ弾き語り、喜田川久美」と大きく描かれており、二十代前半の女性が柔和な笑顔でピアノを弾いているのがある。
「つまり、主演なのに小さく扱われるのが我慢できないってことかしら?」
澪がそう言うと、梓は無言で頷く。
「あの子、最近市のコンクールとかで大賞受賞したりで、有望株とされてるのよ。もちろん実力とかもあるし、それなりに可愛い子でしょ? まぁ、そのせいで変なファンもついてるけどね」
またも言い難そうになる梓は、一度頷いてから続ける。
「えと、あんまり大声でいえないんだけど、この合唱団のスポンサーっていうのがさ、この喜田川久美さんのお父さんなの。それで、条件ってわけじゃないんだけど、娘の晴れ舞台を作って欲しいらしくって……」
「なるほど……、スポンサーの意向に従ったわけね……」
澪はうんうんと頷き、したり顔になる。
「それも確かに原因なんだろうけど、実はさ、真帆のファンてのも問題で……」
「まだあるんだ」
「市のコンクールの時の動画がなんだか動画投稿サイトにアップされてたのよ」
「へぇ、でもそれが?」
今一つぴんと来ない真琴。彼の想像では真帆が歌っているであろう映像がネットで公開されているというもの。
「ローアングルっていうのかな……。ちょっとカメラの視線がおかしいのよね……」
「ローアングル? それって……」
真琴が余計な質問をしそうになったところで澪が彼の口を抑える。
「つまり、ファンっていうか……」
「まぁそんなところなの。多分今日もそういうのが居ると思うし、真帆はああいう意地っ張りな子だから気勢張ってるけど、本当は怖くて悔しくてたまらないと思うのよね」
「ふうん。なるほどね……」
ようやく真琴も納得する。そうなれば彼女のワガママっぷりも頷けるというもの……かは別として、彼はひとまず一階へ抜ける階段に走る。
「真琴、どこ行くの?」
「うん、第三幕までにはまだ時間があるでしょ? ちょっと買い物にいってくる」
先ほどいわれたミルクルをストロー付きで用意してあげる程度、苦にはならない……。
続く
「えと、主演は真帆のはずなんだけど、ちょっとあってね……」
「梓、聞こえているわよ」
真帆は立ち止まるとくるりと踵を返し、真琴のまん前にやってきて鼻先を突く。
「早く来なさいよ。リハーサル始まっちゃうでしょ?」
――それなら自分がもてばいいのに。
そんな言葉を飲み込みながら、真琴は小走りで彼女を追いかけた……。
-:-
「ご苦労様。外で待ってなさい」
下手側の控え室に着くと、真帆は真琴にそう告げて臙脂色のブレザーを脱いでハンガーにかける。
「……ちょっと、今から着替えなんだけど、何時までいるの? このポンスケベ」
戸惑う真琴にまだ居たのかとばかりに睨みつける。
「あ、ごめんなさい……」
真琴はこれ以上何か言われても適わないと、急いで控え室を出る。
下手側は上手に比べて簡素。舞台裏と表を繋ぐだけの通路といったほうが正しい。モニターが設置されており、舞台の様子を確認することが出来る程度。
演者が身だしなみをチェックできるように洗面台と鏡が備えられており、荷物を置ける棚もある。
むき出しのコンクリートで出来た階段は気休め程度の手すりが付いており、下を見るとそのまま落下してしまいそうな隙間がある。
上手と同じく両開きの扉があり、厚い壁を隔てて片側だけの扉がある。その片側の扉には覗き窓がついており、舞台の様子を見ることが出来る。
「へぇ、こういう風になってるんだ」
澪が舞台の様子を見ているので、梓も隣に立って覗いてみる。
「へ~、初めて見た。舞台裏からだと客席ってこう見えるんだ」
普段はお客様であろう梓は、感心したように呟く。
真琴も何とか見ようとするが、二人に邪魔されてよく見えない。
「ちょっと、ポ……付き人! どこに行ったの?」
すると再び真帆の声。おそらく真琴のことを呼んでいるのだろう、彼は急いで控え室のほうへと走る。
「はいはい、只今」
控え室の前では真帆が腰に手を当てて踏ん反り返っている。ただ、先ほどとは衣装が異なり、パンフレットにあるような可愛らしい白のドレス姿になっていた。
「もう、どこをほっつき歩いていたのかしら。今、第二幕のリハの最中でしょ? 語りは終りそう?」
その姿だけならお姫様といえるのだが、口を開けば烈火のごとく捲くし立てられる。印象もなにもあったものでもない。
「えと、よくわからないけど……」
スタッフといえど急場しのぎでしかない彼は、演目の詳しい内容を知らされていない。だが、真帆はそれを許すつもりは無いらしく、またも彼の鼻先を小突く。
「んもう、ちゃんとプログラムを見ておきなさいよ……。いい? 第二幕と第一幕は歌劇なの。語りと合唱が交互に来ると覚えておきなさい」
「はい、ごめんなさい」
押し切られる形で謝ってしまう真琴に澪は苦笑い。対照的に梓は真っ赤な顔をして真帆に歩み寄り……、
「ちょっと真帆、真琴君は貴女の小間使いじゃないの! 無茶なことを言わないで!」
「何よ、スタッフなんだからそれぐらい知っていてもいいじゃない?」
「スタッフっていってもただのボランティアだもの。それに今日初めて知らされたんでしょ? ね、真琴君」
「う、うん」
梓の推測どおり、真琴も今日の仕事を全て理解しての参加ではなかった。特に言われていたのは先ほどまでに終えた受付の設営と舞台準備、それに幕間時の撤収準備作業のみだ。ワガママな女の子の世話というのは聞いていない。
「ふうん、そうなんだ……」
すると今度は意味深な笑顔を浮かべだす真帆。
「な、なにがそうなのよ」
怯む梓に、真帆はしてやったりとほくそ笑む。
「真琴君ねぇ……」
「何が言いたいのよ!」
声を荒げるも及び腰。
「言ってもいいの?」
「どうぞ……」
さらに小声になり出す始末。
「梓は……、真琴君のことがぁ……」
「ダメダメ! やっぱ言わないで!」
にやりと笑う真帆の口を慌てて閉じる梓。
「あ、五十嵐さん、ここに居たの? もう直ぐ第二幕のリハーサルだから準備して」
そこへ飛び込んできたのは由真の凛とした声。彼女は急かすようにジェスチャーをすると、上手側に走る。
「あーもう……、とにかく第二幕が終るまでにミルクルを用意しておいてね。ストロー付きよ。お願いね、真琴君!」
とってつけたように「君」とつける真帆は、ドレスの裾を持つとパタパタと駆けて行った。
「なんか、役柄とは全然イメージの違う子ね……」
最中蚊帳の外に居た澪がそう呟くと、梓はため息をつく。
「あのね、本当はあそこまで荒れる子じゃないのよ。ちょっとあって……」
「あ、さっき言ってた役柄のこと? 主演がどうのっていうの」
「うん。あのね、今回の歌劇の演目「冴えない老猫」の主役は真帆なんだけどさ、パンフレット見てよ……」
言われるままにパンフレットを見る二人。そこには確かに「冴えない老猫」とあるが、真帆は出演者一覧に顔を並べるだけで、別段ピックアップされている様子はない。
メインには「ピアノ弾き語り、喜田川久美」と大きく描かれており、二十代前半の女性が柔和な笑顔でピアノを弾いているのがある。
「つまり、主演なのに小さく扱われるのが我慢できないってことかしら?」
澪がそう言うと、梓は無言で頷く。
「あの子、最近市のコンクールとかで大賞受賞したりで、有望株とされてるのよ。もちろん実力とかもあるし、それなりに可愛い子でしょ? まぁ、そのせいで変なファンもついてるけどね」
またも言い難そうになる梓は、一度頷いてから続ける。
「えと、あんまり大声でいえないんだけど、この合唱団のスポンサーっていうのがさ、この喜田川久美さんのお父さんなの。それで、条件ってわけじゃないんだけど、娘の晴れ舞台を作って欲しいらしくって……」
「なるほど……、スポンサーの意向に従ったわけね……」
澪はうんうんと頷き、したり顔になる。
「それも確かに原因なんだろうけど、実はさ、真帆のファンてのも問題で……」
「まだあるんだ」
「市のコンクールの時の動画がなんだか動画投稿サイトにアップされてたのよ」
「へぇ、でもそれが?」
今一つぴんと来ない真琴。彼の想像では真帆が歌っているであろう映像がネットで公開されているというもの。
「ローアングルっていうのかな……。ちょっとカメラの視線がおかしいのよね……」
「ローアングル? それって……」
真琴が余計な質問をしそうになったところで澪が彼の口を抑える。
「つまり、ファンっていうか……」
「まぁそんなところなの。多分今日もそういうのが居ると思うし、真帆はああいう意地っ張りな子だから気勢張ってるけど、本当は怖くて悔しくてたまらないと思うのよね」
「ふうん。なるほどね……」
ようやく真琴も納得する。そうなれば彼女のワガママっぷりも頷けるというもの……かは別として、彼はひとまず一階へ抜ける階段に走る。
「真琴、どこ行くの?」
「うん、第三幕までにはまだ時間があるでしょ? ちょっと買い物にいってくる」
先ほどいわれたミルクルをストロー付きで用意してあげる程度、苦にはならない……。
続く