「……葉月君は二幕の準備は上手から譜面台を運んでくれ。中央に緑の目張りをしてあるところがあるから、そこにおくだけだ。その足で下手側に椅子を設置。椅子は下手にあるから、それを使ってくれ。あとは……」
上手に戻ると石塚が台本片手にスタッフに指示をしていた。彼は真琴を見つけると丁度良いとばかりに、邦治を呼び寄せて打ち合わせをする。
「邦治君はピアノを動かすのを手伝ってくれ。かなり重いから、腰やらないように気をつけてな」
「はい」
二人はそれに頷き、舞台見取り図に自分の動線を書き込み、シミュレーションを行う。
しばらくして、舞台から一幕の終盤を告げる歌声が響き、その後、拍手が起こる。
『只今より、十分の休憩に入ります。また、本日、ロビーでは今日の歌劇の演目である「冴えない老猫」の詩入りのポストカードが販売されております。よろしければどうぞ、ごらんになってください……』
続く由真のアナウンスの後、会場から人々の席を立つ音が響きだす。
舞台が薄暗くなり、出演者とホールスタッフが入れ替わり、舞台準備が始まる。
真琴は言われたとおりに譜面台を舞台中央へと運ぶ。その後、下手へと回り、椅子を運び込み、目張りで指示されるとおりに並べる。
舞台中央では石塚や邦治がピアノの位置をずらすための装置を運び込んでおり、滞りなく行われている様子だった。
仕事を終えた真琴は下手側の扉から戻り、閉めようとする。
しかし、手で押してもびくともしない。確かに重い扉ではあるが、動かせないというほどではないはずだ。現に押す分には引っ込むのだから。
――なんだ? どうしてだ……? あ……。
薄暗い足元に木片があった。それには幾重に重ねられたピアノ線が張っており、それがつっかえの役割を果たしているようだった。
「よいしょっと……」
一旦ドアを引いてから木片を外すと、ドアはゆっくりと閉まる。その要領で大きな扉も閉める。
「ふぅ……」
「……なのね……」
「……にも立場がある……」
仕事を終えたところで戻ろうとする真琴だが、誰かの話し声が聞こえる。それは静かだが、どうにも穏やかなものではない。
――なんだろう?
立ち聞きは趣味が悪いと思いつつ、今出て行くのも難しく、真琴はひとまず小さな扉の通路に隠れる。
「だから、僕は合唱団を大きくするために……。わかってくれ。君だってもう子供じゃないんだ。夢だけじゃ生きていけないんだよ」
「そのために貴方は……、んぅん。いい。そんなこと今更言ってもしょうがないものね。でも、感情とそういうのは割り切れないものなのよ。しばらく私は頭を冷やしたいわ。貴方の顔が見えないところでね……」
「わがままだけど、今、君を失うわけにはいかないんだ」
「勝手なことばかり言って……」
声の様子から一郎と由真だとわかる。話しも前がわからないが後ろから追うにおおよそは痴話喧嘩と合唱団をごちゃ混ぜだろうと推測できる。だが、それがわかったところで真琴の立場は変わらない。
暗く埃っぽい狭い通路にて何時二人が来るか、見つからないかと思うとひやひやする。彼は今盗み聞きの真っ最中なのだから。
「僕は君を捨てるつもりは無い。ただ、一緒には居られないんだ。僕の背中にはもういろいろと掛かりすぎている……」
「私が乗る隙間も用意できないくせに、よく言うわ……」
由真の捨て台詞の後、彼女が下手からホールに抜けるドアへとはや歩きするのが見えた。そして、バタンと乱暴にドアが閉められた音が続く。
――う~ん、なんだか気まずい……。
出るには出られるのだが、まだ一郎がそこにいるのだろう。そこへ真琴が出てきたとなれば、盗み聞きしていたこともしっかり伝わるわけで、気まずいことこの上ない。
だが、その心配も徒労らしく、一郎は手近にあった箱型の椅子に何かを入れると、そのままパタパタと足音を遠ざけていく。
「ふぅ……」
ようやく重圧のひと時から開放された真琴は、どっと来る真理的疲労を拭おうと額を擦る。
「……終ったかしら?」
すると控え室の扉も開き、真帆が顔を出す。
「みたい……」
「あは、真琴君も居た」
彼女は苦笑いを浮かべながら出てくると、上手側の通路を確認する。
「由真さん、平木先生に振られたのよね……」
「みたいですね」
さすがにあの場面から想像するのは難しくない。
要するに、一郎は合唱団の活躍のためにスポンサーである喜田川久美を取り、由真を捨てた。だが、由真自体は大切なスタッフであり、完全に切り捨てることはできていない。
「先生もそういうところがね。真琴君も気をつけなさいよ。優柔不断な男は女を不幸にするんだから……」
「は、は~い」
今のところその問題は杞憂に過ぎないのだが、出来れば自分が他の女の子と一緒に居ることを、あの子が少しでも嫉妬していてくれたらと思う真琴だった……。
――**――
第二幕開演から数分後、澪と梓は二階のロビーから観客席へと移動していた。
出入り口は防音と音響を兼ねており、重い扉を二つ抜けてようやく観客席へと入ることが出来る。
ドアを開けると同時に拍手が巻き起こり、まるで自分達が歓迎されたかのように錯覚してしまうが、それは照明の下に照らし出される同級生へのもの。
下手から現れた白いドレス姿の真帆は、舞台袖で何かを探すような仕草をし、徐々に舞台中央へと移動する。
演目は「冴えない老猫」。童話というよりは風刺に感じられるタイトル。
「あ、居たっ! このイタズラ猫さんめ!」
可愛らしい彼女の声の先には何も無い。代わりに背景にあるスクリーンに眠そうな三毛猫が映し出されていた。
「そ~っとよ、そ~っと……」
「わかってるわよ……」
澪と梓は物音を立てぬようにそうっと歩き、最前列まで移動する。
他の観客の視界を邪魔しないように腰を曲げての移動はかなり辛いが、それも後しばらくと我慢する。
――もう、これじゃパンツ見えちゃうよ……。
制服のスカートは短めが基本。もちろん、他の子がそうしているからでしかないが。
この暗がりなら覗きこんでも見えることは無いだろう。だが、それで納得できないのが複雑な乙女心。澪は心配そうにお尻を隠そうとするが、そのとき背後で何かが動く音がした。そして気をつけないと気が付かないくらい小さな機械音。
「……!?」
立ち止まる澪。梓は先に席にたどり着いており、何事かと彼女を見る。
「……ちょっと澪、早く来なさいよ」
「は、はいはい……」
澪は振り返ろうとしたが、梓に急かされてそのまま移動する。
ただ、席についてからもう一度振り返ったとき、そこには今朝見知った男がいたような……。
続く
「はい」
二人はそれに頷き、舞台見取り図に自分の動線を書き込み、シミュレーションを行う。
しばらくして、舞台から一幕の終盤を告げる歌声が響き、その後、拍手が起こる。
『只今より、十分の休憩に入ります。また、本日、ロビーでは今日の歌劇の演目である「冴えない老猫」の詩入りのポストカードが販売されております。よろしければどうぞ、ごらんになってください……』
続く由真のアナウンスの後、会場から人々の席を立つ音が響きだす。
舞台が薄暗くなり、出演者とホールスタッフが入れ替わり、舞台準備が始まる。
真琴は言われたとおりに譜面台を舞台中央へと運ぶ。その後、下手へと回り、椅子を運び込み、目張りで指示されるとおりに並べる。
舞台中央では石塚や邦治がピアノの位置をずらすための装置を運び込んでおり、滞りなく行われている様子だった。
仕事を終えた真琴は下手側の扉から戻り、閉めようとする。
しかし、手で押してもびくともしない。確かに重い扉ではあるが、動かせないというほどではないはずだ。現に押す分には引っ込むのだから。
――なんだ? どうしてだ……? あ……。
薄暗い足元に木片があった。それには幾重に重ねられたピアノ線が張っており、それがつっかえの役割を果たしているようだった。
「よいしょっと……」
一旦ドアを引いてから木片を外すと、ドアはゆっくりと閉まる。その要領で大きな扉も閉める。
「ふぅ……」
「……なのね……」
「……にも立場がある……」
仕事を終えたところで戻ろうとする真琴だが、誰かの話し声が聞こえる。それは静かだが、どうにも穏やかなものではない。
――なんだろう?
立ち聞きは趣味が悪いと思いつつ、今出て行くのも難しく、真琴はひとまず小さな扉の通路に隠れる。
「だから、僕は合唱団を大きくするために……。わかってくれ。君だってもう子供じゃないんだ。夢だけじゃ生きていけないんだよ」
「そのために貴方は……、んぅん。いい。そんなこと今更言ってもしょうがないものね。でも、感情とそういうのは割り切れないものなのよ。しばらく私は頭を冷やしたいわ。貴方の顔が見えないところでね……」
「わがままだけど、今、君を失うわけにはいかないんだ」
「勝手なことばかり言って……」
声の様子から一郎と由真だとわかる。話しも前がわからないが後ろから追うにおおよそは痴話喧嘩と合唱団をごちゃ混ぜだろうと推測できる。だが、それがわかったところで真琴の立場は変わらない。
暗く埃っぽい狭い通路にて何時二人が来るか、見つからないかと思うとひやひやする。彼は今盗み聞きの真っ最中なのだから。
「僕は君を捨てるつもりは無い。ただ、一緒には居られないんだ。僕の背中にはもういろいろと掛かりすぎている……」
「私が乗る隙間も用意できないくせに、よく言うわ……」
由真の捨て台詞の後、彼女が下手からホールに抜けるドアへとはや歩きするのが見えた。そして、バタンと乱暴にドアが閉められた音が続く。
――う~ん、なんだか気まずい……。
出るには出られるのだが、まだ一郎がそこにいるのだろう。そこへ真琴が出てきたとなれば、盗み聞きしていたこともしっかり伝わるわけで、気まずいことこの上ない。
だが、その心配も徒労らしく、一郎は手近にあった箱型の椅子に何かを入れると、そのままパタパタと足音を遠ざけていく。
「ふぅ……」
ようやく重圧のひと時から開放された真琴は、どっと来る真理的疲労を拭おうと額を擦る。
「……終ったかしら?」
すると控え室の扉も開き、真帆が顔を出す。
「みたい……」
「あは、真琴君も居た」
彼女は苦笑いを浮かべながら出てくると、上手側の通路を確認する。
「由真さん、平木先生に振られたのよね……」
「みたいですね」
さすがにあの場面から想像するのは難しくない。
要するに、一郎は合唱団の活躍のためにスポンサーである喜田川久美を取り、由真を捨てた。だが、由真自体は大切なスタッフであり、完全に切り捨てることはできていない。
「先生もそういうところがね。真琴君も気をつけなさいよ。優柔不断な男は女を不幸にするんだから……」
「は、は~い」
今のところその問題は杞憂に過ぎないのだが、出来れば自分が他の女の子と一緒に居ることを、あの子が少しでも嫉妬していてくれたらと思う真琴だった……。
――**――
第二幕開演から数分後、澪と梓は二階のロビーから観客席へと移動していた。
出入り口は防音と音響を兼ねており、重い扉を二つ抜けてようやく観客席へと入ることが出来る。
ドアを開けると同時に拍手が巻き起こり、まるで自分達が歓迎されたかのように錯覚してしまうが、それは照明の下に照らし出される同級生へのもの。
下手から現れた白いドレス姿の真帆は、舞台袖で何かを探すような仕草をし、徐々に舞台中央へと移動する。
演目は「冴えない老猫」。童話というよりは風刺に感じられるタイトル。
「あ、居たっ! このイタズラ猫さんめ!」
可愛らしい彼女の声の先には何も無い。代わりに背景にあるスクリーンに眠そうな三毛猫が映し出されていた。
「そ~っとよ、そ~っと……」
「わかってるわよ……」
澪と梓は物音を立てぬようにそうっと歩き、最前列まで移動する。
他の観客の視界を邪魔しないように腰を曲げての移動はかなり辛いが、それも後しばらくと我慢する。
――もう、これじゃパンツ見えちゃうよ……。
制服のスカートは短めが基本。もちろん、他の子がそうしているからでしかないが。
この暗がりなら覗きこんでも見えることは無いだろう。だが、それで納得できないのが複雑な乙女心。澪は心配そうにお尻を隠そうとするが、そのとき背後で何かが動く音がした。そして気をつけないと気が付かないくらい小さな機械音。
「……!?」
立ち止まる澪。梓は先に席にたどり着いており、何事かと彼女を見る。
「……ちょっと澪、早く来なさいよ」
「は、はいはい……」
澪は振り返ろうとしたが、梓に急かされてそのまま移動する。
ただ、席についてからもう一度振り返ったとき、そこには今朝見知った男がいたような……。
続く